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東京地方裁判所 昭和35年(ワ)3751号 判決 1970年1月28日

原告

高橋正

高橋トヨ

代理人

新井章

外一二名

被告

東京都

代表者

美濃部亮吉

指定代理人

石葉光信

外二名

被告補助参加人

石原常治

外一五名

代理人

山下卯吉

外五名

主文

一、被告は、原告両告に対して、それぞれ金一、五〇〇、〇〇〇円およびこれに対する昭和三五年五月一七日から支払ずみに至るまで年五分の割合による金員を支払え。

二、訴訟費用は、原告と被告との間に生じた部分は被告の、参加によりて生じた部分は補助参加人らの各負担とする。

三、この判決は、仮りに執行することができる。

事実

第一部原告等の申立および主張

第一、請求の趣旨

1  主文第一項と同旨。

2  訴訟費用は被告の負担とする。

との判決ならびに仮執行の宣言を求める。

第二、請求の原因

一、(亡高橋正夫の地位)

訴外亡高橋正夫は原告等の長男であり、昭和二五年一〇月頃より被告東京都の民生局保護課に主事補として勤務していた。

二、(事件発生に至る経過)

1 第二三回メーデー中央大会は、昭和二七年五月一日神宮外苑において行なわれた。メーデー会場については前年来皇居前広場の使用が政府によつて禁じられ、昭和二七年四月二八日東京地方裁判所より政府の右禁止措置を違法とする判決が下された。しかし政府は依然禁止の態度を固執したので、多くのメーデー参加者達は政府の態度に抗議し反省を求めるため神宮外苑から同広場へ歩を進めた。

右参加者達は午後二時三〇分頃よりほとんど何らの障害もなく二重橋前に到着し、しかるべき集会をもつた後に静穏裡に解散しようとしていた。そのとき突如として、警視庁第一方面予備隊第一、第二、第四の各中隊の警察官約三〇〇名がこの群衆の中に催涙弾を投げ入れ、拳銃を発射し、警棒をふりかざしてこれに襲いかかつた。(以下、第一事件という。)これは参加者達が広場を占拠し、さらには二重橋をこえて皇居に乱入するなどと妄断し、東京都公安条例違反のデモという名目で、実力で解散させようとしたところに出たものであつた。このため自主的に集会解散しようとしていた参加者達を全く混乱に陥しいれることになつた。

2 一方、メーデー行進参加者たちは次々と同広場に到着し、それぞれ広場内の芝生上にたむろしていたが、やがて解散前の集会をもつべく銀杏台上の島に集結をはじめた。(当時の皇居前広場の概要は別紙略図のとおりである。)ところがこの間に約一五〇〇名に増強された警視庁の警官隊(内訳、第一方面予備隊本部、同三カ中隊、第六方面予備隊本部、同三カ中隊、第七方面予備隊本部、同三カ中隊、渡辺部隊及び丸の内部隊等)は、米川宗治警視の現地指揮の下に、なおも強引に実力による解散と参加者達の広場外への排除をはかり、午後三時二〇分頃再び四十数発の催涙弾を投げいれ、警棒をふりあげて、一斉に参加者の集団に襲いかかつた。(以下、第二事件という。)

三、(高橋正夫の行動)

高橋正夫は、東京都職員労働組合の一員として、メーデー中央大会に参加し、大会終了後、午後零時三〇分頃から各地区別に集団示威行進が開始され、同人は中部コース(神宮外苑―赤坂見附―国会議事堂―日比谷公園)に所属して行進し、中部コースの諸団体は午後二時頃日比谷公園に到着し、逐次解散した。解散後高橋正夫は、一旦東京都民生局保護課の庁舎に帰つたが、東京都職員労働組合の組合員等と共に、祝田橋(または馬場先門)から皇居前広場に入り、他の参加者達と共に銀杏台上に島の附近に集まつていた。

四、(警官隊の拳銃発射による高橋正夫の死亡)

高橋正夫は、前記第二事件のおこつた際、警官隊の激しい攻撃をうけて他の大勢の参加者と共にかけ足で逃げ始めた。そして午後四時頃中央自動車道路をわたり、楠公島上を楠公銅像方面に向つて逃げてきたとき、別表記載の警視庁警察官(補助参加人ら)のうちいずれかの者の拳銃弾により背後から心臓部を射ちぬかれ、出血多量のため、まもなくその場附近において死亡した。

五、(警察官らの故意過失)

右警察官らの当時の所属、拳銃発射の時刻、場所は別表記載のとおりであり、発射弾数は同表記載の発射数以上である。

同人らは、高橋正夫等多数の参加者達が祝田橋または馬場先門方面へ移動していくのを目撃するや、何らその必要がないのに警察官職務執行法第七条、警察官拳銃使用及び取扱規程に反して拳銃を発射し、故意または少なくとも過失により高橋正夫を死亡させた。

六、(被告の公務員による不法行為の責任)

前記のとおり高橋正夫は、前記警視庁警察官らのうち一名によつて死亡させられたのであるが、右警察官等はいずれも被告の公務員であるから、被告はその責に任ずるものである。

七、(原告らの損害)

1 得べかりし利益

高橋正夫は昭和四年三月一一日出生の男子である。

本件事故発生当時、同人は年令満二三年一月余であつて、生前すこぶる健康体であつて、当時東京都民生局保護課に勤務し、六級七号俸の給料を受けていた。もし同人が本件事故にあわずに勤務を継続したとすれば、通常の昇給ならびにベース・アップ等がなされ、昭和三六年五月迄の月給、諸手当、賞与等は次の通りである。<表ⅠⅡ省略>

(イ) したがつて、亡正夫は昭和二七年五月より昭和三六年四月まで、九年間で右ⅠⅡの合計金二、四六九、二〇六円の収入をうることができたはずである。

亡正夫は、諸支出を含めてその生活費は、右の収入の三分の一以下であり、したがつてその三分の二、すなわち金一、六四六、一三七円以上が昭和三六年四月までの得べかりし利益であつたとみることができる。

(ロ) ところで、満二三年の男子の将来の生存平均年数は、四三、六六年であるから、正夫は本件事故がなければなお少くとも四三年間は生きられ、昭和三六年五月一日以降三四年間前記利益をうることができるものである。

正夫が通常の勤務をしていれば、現在の給与体系では前表(Ⅰ)18記載のとおりであり、更に年間少なくとも金八九、三二三円(昭和三五年度賞与)の賞与を得られるので、年合計金四一六、六八三円の収入を得ることができる。そして、生活費はその三分の一以下であること前述のとおりであるから、その三分の二すなわち、金二七七、七八八円以上が正夫の純収入であつたとみることができる。

そこで少なくとも右年金二七七、七八八円の割合による三四年間の純収入は正夫の将来得べかりし利益である。

今これを一時に損害の賠償を受けるとすれば、ホフマン式計算法により年五分の中間利息を控除して現在(昭和三六年五月現在)の価額によると金五、四三〇、七五五円を下らない。

以上(イ)(ロ)の合計金七、〇七六、八九二円が正夫の将来得べかりし利益であつて、同人は本件事故によつてこれを喪失し、同額の損害を蒙つたものである。

原告両名は正夫の両親であり、右損害金の請求権を相続により各二分の一宛承継した。

2 慰藉料

正夫は原告らの長男であつて、大東文化学院(旧専門学校)を卒業し、昭和二五年一〇月より東京都庁に入り、事件当時は民生局保護課援護係に勤務し、主事補の職にあつたものである。勤務が継続し、通常の昇給がなされたとすれば、現在(昭和三六年五月)の給与体系では本俸月金二四、四〇〇円、手当月金二、八八〇円である。父である原告正は神奈川県渉外労務管理事務所に勤務し、母である原告トヨは事件当時無職であつたが現在飲食店を経営している。妹(二八才)はすでに嫁ぎ、現在二児の母である。弟(一九才)は薬品塗料森治商店に勤務している。

原告らは正夫に将来の一切を託していた。正夫は経済生活でも精神的な面でも原告らにとつて何物にも替え難い希望であり夢であつた。正夫の次が女であり、次男が遙かに年下であつたことは、そのような傾向を一層強くした。

ところが、前述の如き経緯により正夫は警察官の違法な行為により、全く突然に殺害されるに至つたのである。之により蒙つた原告ら両名の精神上の苦痛は甚大であり、被告は右苦痛を慰藉するため、原告らに相当の慰藉料を支払う義務がある。

そしてその額は諸般の事情からして原告両名に対し各金百万円が相当である。

八、よつて、原告らは被告に対し各自少なくとも金四、五三八、四四六円の損害賠償請求権を有するところ、その内金として各金一、五〇〇、〇〇〇円、およびこれに対する訴状送達の翌日である昭和三五年五月一七日より、支払ずみまで、年五分の割合による遅延損害金の支払を求める。

第三、抗弁に対する答弁

一、拳銃発射の正当性に対する答弁

昭和二七年五月一日午後四時頃皇居前広場において騒擾状態が発生したこと、および拳銃発射が正当であるとの被告の主張は否認する。

また、被告の拳銃射発の正当性の主張は主張自体理由がないものである。その理由は次のとおりである。

警察官職務執行法第七条は、警察官が武器を使用しうる要件として、(一)「犯人の逮捕…(等)のため必要であると認める相当の理由ある場合」および武器使用の行使の態様について、(二)「その事態に応じ、合理的に必要と判断される限度において武器を使用することができる」と定めている。

本件で問題となる武器の使用とは拳銃の発射であるが、右の(二)の武器使用の限界についての要件を考えれば、拳銃発射の態様を次の三つに大別しうる。

(1) 前述(一)の要件の存する場合、その目的のために威嚇射撃を行なうこと。これは銃口を地面に向けるなどして弾丸を犯人等の身体に命中させることなく、文字通りの威嚇にすぎない。

(2) 前述(一)の要件の存する場告、その目的のためには威嚇射撃のみでは足らず、犯人等の足などを狙つてその身体に直接危害を加え、逃走防止、防護、抵抗抑止の目的を達すること。

ただしこの場合は、威嚇の場合と異りさらに要件がきびしく警職法第七条一号、二号および正当防衛、緊急避難のいずれかの要件を満たさなければならない。

(3) 前述(一)の要件の存する場合、その目的のためには、犯人等の身体に危害を加えただけでは足らず、その生命に危害を加える、すなわち射殺すること。

この場合も(2)と同様、同法第七条一号、二号が要件になつているかの如くにも見えるが、前述(一)の要件を充たし、かつ正当防衛、緊急避難等の要件を充たし、射殺がやむことを得ない場合に限る。

すなわち、拳銃はその事態に応じ合理的に必要と判断された場合、犯人等の身体に危害を与えない限度で、或は生命に危害を与えない限度で、或は特定の者以外の者の生命身体等に危害を及ぼさない限度でのみその使用が認められるのである。したがつて警察官は拳銃使用については前述の如く(一)の要件を判断し、かつ(二)の限度においてすなわち(1)の威嚇のための発射のときには何人に対しても生命、身体の危害を及ぼさないよう、(2)の場合には、その者の生命、それ以外の者の生命身体に危害を及ぼないよう、(3)の場合には他の者の生命、身体に危害を及ぼさないよう細心の注意をもつて発射すべき法律上の注意義務を有している。

被告および補助参加人は、補助参加人らの拳銃発射の(二)の限度は、高橋正夫については勿論、何人に対してもいわゆる射殺の意思を否定しており、おおむね威嚇によるものの如くであるが、「特定の者の射殺を限度とする拳銃発射」の要件および意思がなくして補助参加人らの拳銃発射がなされ、しかも高橋正夫が拳銃弾により死亡していることからみれば、少なくとも補助参加人の誰かが、前記注意義務に違反して(不注意で銃口を高橋正夫の方向に向けて)拳銃を発射し、その結果同人が心臓部貫通により死亡したことは疑いを容れない。

二、時効の抗弁に対する答弁

被告の主張を否認する。

原告らは、昭和二七年五月一日に高橋正夫が死亡したことを知つたけれども、原告らが「加害者」を知つたのは昭和三五年の本訴提起直前である。すなわち、

(一) 原告らは高橋正夫の加害者の捜索発見に努めてきたが、事件が複雑尨大なため思うにまかせず、商業新聞やラジオ等で漠然と「警察官」の拳銃発射により射殺されたものという程度以上に、加害者や加害情況を知ることができなかつた。

(二) ところが、原告らは、昭和三四年五月六日同年七月一五日迄の間に、東京地方裁判所刑事第一一部係属の岡本光雄外二二六名に対する騒擾助勢等被告事件の公判廷において、補助参加人らがそれぞれ出廷証言するに及び、ようやく補助参加人らの既述の如き状況下での拳銃発射の事実が判明し、よつて加害者を知つた次第である。

(三) 被告は加害者が「公務員」であることを知れば、国または公共団体に対し損害賠償請求をなしうるから時効は右了知のときから進行するというけれども、当該公務員が国家公務員か地方公務員かまた同じ地方公務員でもその属する地方公共団体がいずれであるかが明らかにならなければ、被害者としては損害賠償請求権を誰に対し行使すべきかわからないのであつて、被告の主張は失当である。

三、過失相殺の抗弁に対する答弁

高橋正夫が皇居前広場に入つたことは同人が死亡したこととの関係で何らの過失も存在しない。

皇居前広場の入口(馬場先門、祝田橋等)を当日警官が通行を一時制限していたことはあるが、それはごく短い間であつて、多くのデモ参加者はそのような事情を知らずに何事もなく広場に入つたし、その他にも一般通行人も多く出入りしていた。高橋正夫はデモ参加者と共に隊列を組んで広場に入つたのではなく、一般通行人の一人として入つたものである。当日政府より皇居前広場の使用を禁止されていたのは、こゝを当日のメーデー会場として使用することについてであり、多くの労働者が或は一般人が広場に入ることについて、何らの制限もなかつたものである。

高橋正夫の死亡後、その着衣のポケットから小石が発見されたことは不知であるが、仮りにそのようなことがあつたとしても、これをもつて同人の被弾、死亡の過失を認定することは大変な飛躍である。いわんやメーデー当日勤務時間中に広場へ行つたことなどは過失とは何ら関係がない。

第二部被告および補助参加人らの申立および主張

第一、請求の趣旨に対する答弁

1  原告らの請求を棄却する。

2  訴訟費用は原告らの負担とする。

との判決を求める。

第二、請求の原因についての認否

一、(亡高橋正夫の地位)

認める。

二、(事件発生に至る経過)

1 1のうち、第二三回メーデー中央大会が原告ら主張の日時場所で行なわれたこと、メーデー会場について前年来皇居前広場の使用が政府によつて禁じられたこと、原告ら主張の日に東京地方裁判所がその主張の趣旨の判決をしたこと、政府が依然使用禁止の態度をとりつづけたこと、多くのメーデー参加者達が同広場に歩を進め、午後二時三〇分頃続々と二重橋前に到着したこと、これを解散させるため警視庁第一方面予備隊第一、第二、第四の各中隊の警察官約三〇〇名が実力を行使し、その際、警棒、催涙ガス筒(催涙弾ではない。)、拳銃を使用する者のあつたことは認める。

その余の事実は否認する。

2 2のうち、メーデー行進参加者達が銀杏台上の島に集結をはじめたこと、これに対し、警視庁警察官隊六百数十名(内訳、第一方面予備隊本部、同三カ中隊、第六方面予備隊本部同二カ中隊、第七方面予備隊本部、同三カ中隊、渡辺部隊および丸の内部隊)が実力をもつてその解散および広場外への排除をはかり、午後三時二〇分頃、警棒を使用し、四十数発の催涙ガス筒を使用したことは認める。

その余の事実は否認する。

三、(高橋正夫の行動)

認める。

四、(警官隊の拳銃発射による高橋正夫の死亡)

補助参加人らが拳銃弾を発射したことは認める。高橋正夫の行動は不知。その余の事実は否認する。

五、(警察官らの故意過失)

警察官らの当時の所属、拳銃発射の時刻、場所、発射弾数が別表記載のとおりであることは認めるが、その余は否認する。警察官らの拳銃発射の状況は後記のとおりであつて、故意過失はない。

六、(被告の公務員による不法行為の責任)

否認する。

七、(原告らの損害)

1 高橋正夫が本件事故にあわずに勤務を継続したとすれば、その昭和二七年五月から昭和三六年五月までの俸給、諸手当賞与の額が原告ら主張のとおりとなることは認める。

2 2の慰藉料請求権の発生は否認する。

第三、反論―拳銃使用状況

原告ら主張の補助参加人北爪量平以下一五名の拳銃発射の状況は、次のとおりであつて、その発射の位置、方向からみて高橋正夫に命中したはずはない。

昭和二七年五月一日直前において、拳銃奪取事件が相つぎ、本件メーデー当日皇居前広場においても、三件四丁の拳銃が奪取されているのであるから、暴徒がこれらの拳銃を用いて警察官に抵抗し、高橋正夫もこれら暴徒の発射した拳銃弾によつて死亡した可能性もある。

以下拳銃発射の状況について詳述する。

一、北爪量平の拳銃発射の状況

1 北爪の当時の所属部隊、拳銃発射の場所は、原告ら主張のとおりで、その発射数は六発である。

2 北爪は、暴徒を排除しながら、中央自動車道路から桜田門に通ずる皇居前広場内の舗装道路の中央よりやや土手寄り付近まで進出したところ、前方の中央自動車道路付近および祝田橋の両側にある土手の上あるいは斜面に、暴徒が集団をなしており、北爪は、その様相につき、奔馬が猛り狂つている感じを受け、それ以上前進することの危険を感じ、立ち止つた。その時前方一〇メートルないし12.3メートルの祝田橋の土手と土手の中間の中央自動車道路上で、一警官が数名以上の暴徒に取り囲まれていたので、北爪は、警官が暴行を受けているものの如く直感し、暴徒は依然としてそのような状態であり、これを放置するときはその生命身体に危害が及ぶので、これを救助するため、銃口を日比谷公園上空へ向け最初の一発を発射した。しかし、暴徒は少しもひるまなかつたので、続けてさらに銃口を上空へ向けて一発発射した。

その直後、暴徒に取り囲まれた前記警察官は、ふらふらと北爪の方へ歩いて来たので、北爪は拳銃を暴徒の方へ向け、その襲撃を防いでいたが、同警官は北爪の足許まで来て「拳銃をとられた」といつて倒れ、そのまま気絶したような状態になつた。北爪はこれを救助する余裕すらなく、拳銃を暴徒の方へ向けたままであつたが、他の警官が駈け寄り、その警官を後方に運んだ。

3 その間、暴徒は盛んに投石し、なお、何時暴徒から襲撃を受けるかも知れない状況であつたので、北爪は速やかに後退しようとの意思であつたところ、またも、一警官で中央自動車道路の桜田門寄りの石垣下の歩道にて、暴徒四、五名に追いかけられ、暴徒の一人がこれに向い、長い棒を振り上げているのを目撃した。同警官は北爪の方へ逃避して来たが、同人が転倒すると、暴徒は角棒様のものにてこれを殴打し、同人は片手で頭をかばつていたが、顔面からは出血していた。そこで北爪は、同警官の生命身体を防衛するため、銃口を日比谷公園斜め上空に向け、連続して二発発射した。すると暴徒は若干後退し、右警官も後方から来た警官に抱きかゝえられた。その間北爪は拳銃を構え、暴徒の襲撃を防止した。

4 これら北爪が行動している間、暴徒からの投石は継続し、同人は速やかに退避せんとして中央自動車道路から桜田門に通じる舗装道路の中程まで後退したが、同人は同所に散在していた警官が、「今、濠の中へ叩き込まれた者が三、四名いる。救助せねば死亡する」と発言しているのを聞知し、五、六名の警官とともに、その救助のため桜田門寄りの土手の石垣下を経て濠に至ろうとしたが、暴徒は集団をなしてこれに立ちふさがり、前方の七、八名は一斉に北爪らに向い襲来したので、その生命身体に危険を感じこれを防衛するため、北爪は銃口を祝田橋もしくは日比谷公園斜め上空に向け一発発射した。これによりその暴徒は瞬時静止した。

5 その際、後方の警官が「危いから逃げろ」というので、北爪が後方を見ると、中央自動車道路付近の暴徒は、該道路の中程付近まで進出しており、しかも、現場は右手が石垣で、前方、側方は暴徒にふさがれ、後方を遮断されるときは、前記六、七名は孤立状態になるので、全員駆け足で、桜田門寄りに向い逃げた。その途中、土手の石垣下の植込付近で同行の一警官が転倒したが、その時暴徒の集団の先頭者は、角棒、竹竿を携行、追尾して来たので、北爪は右転倒した警官の生命身体に対する危険を感じ、これを防衛するため、振り向きざま銃口を上空に向け、一発発射した。これにより右警官も起き上り、後退することを得た。

6 前記の如き暴徒の襲撃、投石により北爪は顎部に全治約一週間を要する打撲傷を受けた。

二、御園久信の拳銃発射の状況

1 御園の当時の所属部隊、拳銃発射の場所は、原告ら主張のとおりで、その発射数は一発である。

2 御園は、祝田町警備派出所付近より、銀杏台上の島芝生に進み、自己所属部隊の位置を確認せんとしたところ、棒またはプラカードの柄等を所持する暴徒に取り巻かれたが、暴徒は「やつちまえ」、「殺しちまえ」と絶叫しつつ、同人に迫り、かつ、竹竿をもつて同人の左手を殴打したので、同人は自己の身体の危険と拳銃の奪取を防止するため、拳銃を取り出し、「やめろ、やめろ」、「やめないと撃つぞ」と警告したが、これに応じなかつたので、銃口を上空に向け一発発射した。その際暴徒がひるんだので、これに体当りして脱出した。

三、飯島清次の拳銃の状況

1 飯島の当時の所属部隊は原告ら主張のとおりであるが、拳銃発射の場所は、祝田橋に近い中央自動車道路上で、その発射数は五発である。

2 飯島は、暴徒を排除しながら、銀杏台上の島より中央自動車道路に向い前進したが、一旦後退した暴徒二、三〇名が棒を携帯し、祝田橋土手下から反撃し、暴行の挙に出たので、中央自動車道路まで後退した。ところが飯島はすでに暴徒が中央自動車道路疾走の消防自動車、駐留軍トラック等に投石し、また、その乗員を殴打し、さらに警官を祝田橋濠内に投入した等の事実を知り、このまま暴徒に追捕せられるときは、自己の生命身体にいかなる危害を受けるやも計り難きを感じこれを防止するため、銃口を日比谷土手斜上空へ向け連続して五発発射した。これにより暴徒は祝田橋土手下公衆便所付近に逃走し、飯島は右危険から脱出し得た。

3 飯島は、当日暴徒の暴行により全治約一週間を要する下腿打撲傷を受け、かつ、鉄帽も二カ所凹没させられた。

四、森一雄の拳銃発射の状況

1 森の当時の所属部隊、拳銃発射の場所は、原告ら主張のとおりで、その発射数は六発である。

2 森を含む一二、三名の警官は、祝田町警備派出所より桜田濠に沿い、桜田門方向に前進したが、間もなく同派出所前砂利敷交差点で警官隊と対じしていた暴徒に三分断され包囲を受けた。その際暴徒はかん声とともに、六尺棒、竹槍等を携行して警官隊を襲撃し、ために、森は棒で殴打せられ、右肱に全治一〇日(後遺症を伴う)を要する傷害を受くるにいたり、包囲を脱することを得ず、自己の生命身体を防衛するため、銃口を第一生命ホールの上空に向け連続して二発発射した。これにより暴徒は後退した。

3 その後、森は祝田橋内側中央自動車道路から桜田門に通ずる舗装道路の境まで進出したところ、暴徒は中央自動車道路から楠公銅像島寄りに集結し、整官隊および濠に落ちている警官に向い、石、棒等を投げつけ、騒然として大挙襲来する情勢にあり、森は自己ならびに付近警官の生命身体を防衛するため、銃口を第一生命ホール上空に向け、連続して四発発射した。その間に森は急きよ退避して他の警官隊に合流した。

五、斉藤林の拳銃発射の状況

1 斉藤の当時の所属部隊拳銃発射の場所は、原告ら主張のとおりで、その発射数は九発である。

2 斉藤は、暴徒を排除するため、警官隊の一員として祝田町警備派出所付近から、銀杏台上の島西側桜田濠沿い砂利敷道路付近に進出し、圧倒的多数の暴徒の集団と衝突し、乱闘となつたが、その際、同人は暴徒のため、まず左腰部を、欠いで右大腿部を、それぞれ強打され、その場に昏倒し、気力喪失状態となつたので、自己の生命身体を防衛するため、銃口を前方左右の暴徒のもとに向けて、連続して六発発射しつつ後退せんとした。しかるに、その瞬間、右側暴徒が「ポリやつてしまえ」、「ポリ公殺せ」などと叫びながら角棒を振りかざして襲いかかつて来たので、前同様の目的をもつて銃口を暴徒の足もと付近に向け、さらに連続して三発発射した。

3 斉藤は、右衝突により、左腰部、右大腿部に全治約一〇日を要すを打撲傷を負い、鉄帽は割れ、着衣は破れた。

六、石原常治の拳銃発射の状況

1 石原の当時の所属部隊、拳銃発射の場所は、原告ら主張のとおりで、その発射数は五発である。

2 石原は警官隊の一員として、祝田町警備派出所付近から。銀杏台上の島西側桜田濠沿い砂利敷道路付近に進出したが、警官隊は暴徒の大集団と衝突した。その際、石原は、暴徒に取り囲まれ、暴徒のため、角材をもつて頭部を殴打せられるとともに、押し倒され、突く、蹴る、踏む等幾多の暴行を受けたので、自己の生命身体に危険を感じ、これを防衛するため転倒したまま、連続して三発発射し、ようやくその場を脱出し、警官隊に合流した。銃口の方向および位置、被弾して倒れた者の有無は不明である。

3 その後、警官隊は中央自動車道路の西側で集結し、一時該道路をはさんで暴徒と対じしたが、警官隊はさらに前進した。石原は、楠公銅像島側無料休憩所付近に至つた際、またも暴徒に囲まれ、棒、竿などにより攻撃を受けた。石原は、前記の如く、すでに暴徒により殴打せられ、警棒も折れているので、自己の身体に危険を感じ前同様の目的をもつて、銃口を上空に向け連続して二発発射し、退避した。

4 石原は、当日暴徒との衝突で、上唇に裂傷、右大腿部槍挫右肩胛骨打撲傷等、治療約一〇日を要す傷害を受け、なお警棒は折損し、鉄帽は凹没した。

七、成井九次の拳銃発射の状況

1 成井の当時の所属部隊、拳銃発射の場所は、原告ら主張のとおりで、その発射数は六発である。

2 警官隊が、銀杏台上の島西側、桜田濠沿い砂利敷道路上、祝田町警備派出所付近において、圧倒的多数の暴徒から攻撃を受けた際、成井は、同分隊の佐々木七郎巡査が暴徒に囲まれ殴打されているのを見て、救助しようと思つているうち、暴徒に包囲され、かつ、頭等を強打され、続いて前後左右から激烈な衝撃を受け、警棒をもつて極力その防止に努めたが、暴徒の襲撃甚だしく、ついに自己の生命身体を防衛するため、銃口を自己の足許付近に向け、連続して六発発射した。そして、他の警官に救助せられ、後退した。

3 成井は、前記衝突により左第八肋骨骨折、右肩胛骨打撲等全治約一ケ月を要する傷害を受けた。

八、佐々木七郎の拳銃発射の状況

1 佐々木の当時の所属部隊、拳銃発射の場所は、原告ら主張のとおりで、その発射数は一発である。

2 警官隊は、祝田町警備派出所前砂利敷道路付近で、多数の暴徒から攻撃を受け、隊列を分断せられたが、その際佐々木は暴徒の中に巻き込まれ、同時に石または棒をもつて、顔面に一撃を受け、ために一時左眼の視力を失いたるところ、さらに前後左右の暴徒から、棒その他の兇器で、左右大腿部を殴打または左胸部を突かれるなど、袋叩きにされ、その暴行は何時果てるやも計り難く、自己の生命身体を防衛するため、「撃つぞ」と警告の上、銃口を自己の足もと附近に向け一発発射し、後方に脱出した。

3 佐々木はそのため、左頬部、左右大腿部打撲傷等全治約二〇日を要する傷害を受け、かつ、鉄帽の左上方を破壊された。

九、中村政栄の拳銃発射の状況

1 中村の当時の所属部隊、拳銃発射の場所は、原告ら主張のとおりで、その発射数は二発である。

2 警官隊は、祝田町警備派出所附近砂利敷まで後退して、暴徒と約二〇メートルの距離で対じしたが、暴徒は角棒、竹竿等を携行してじりじりと前進し、次いで警官隊に向い、一斉に突撃して来た。その際中村は、暴徒に包囲され、かつ、角棒等で殴打または突かれ、自己の生命身体に危険を感じたので、これを防衛するためやむなく拳銃を抜き中腰の姿勢で銃口を斜め下方にし、日比谷交差点よりやや公園寄りの方向に連続して二発発射し、直ちに暴徒をかき分けて後方に逃れた。

一〇、吉田弘明の拳銃発射の状況

1 吉田の当時の所属部隊、拳銃発射の場所は、原告ら主張のとおりで、その発射数は六発である。

2 警官隊は、祝田町警備派出所附近で暴徒と衝突後、これを祝田橋方面に退けたが、吉田は銀杏台上の島の祝田橋寄りの角のところまで進出した際その芝生をおりた車道上眼前で、一警官が暴徒に囲まれ、激しく殴打されている状況を見て、これを救助すべく祝田橋の土手のがけ下の芝生までおむいたところ、同所附近で、自らが暴徒に前方左右から取り囲まれ、「叩き殺してしまえ」、「殺しちやえ」と怒号する暴徒により、竹棒、木棒にて殴打され、更に突かれ、なお土手上方から、石、カーバイト弾らしきものを投げつけられ、自己の生命、身体の危険を感じ、これを防衛するため、拳銃を取り出して、日比谷公園方向に、銃口を下にして、一、二発発射した。すると暴徒は幾分ひるんだ様子を見せた。その際、附近の車道上に警官二名が倒れているのを発見したが、これを顧みる暇なくこれをふみこえて前方へ出たとき、再び車道上から背中を突かれ、かつ、前あるいは右方から棒で殴つて来られたので自己の生命身体および倒れている警官の生命身体を防衛するため、これら暴徒に向けておおむね日比谷公園方向にさらに四、五発発射した。ただし、この発射によつて被弾し倒れた暴徒は見ない。その後、背後から多数の警官がかけつけたので、暴徒は、日比谷公園方面に逃走した。

一一、岩淵信雄の拳銃発射状況

1 岩淵の当時の所属部隊、拳銃発射の場所は原告ら主張のとおりで、その発射数は一発である。

2 警官隊は、祝田町警備派出所附近から、暴徒を退けて、中央自動車道路を隔てて、楠公銅像島にいた暴徒とにらみ合つた。岩淵は、さらに暴徒を排除すべく、他の警官と共に中央自動車道路を渡つて、楠公銅像島の芝生の上まで行つたが、斜め後方を振り返えると、車道上で一外国人が五、六〇名以上の暴徒に囲まれ、石、竹槍、角棒等を投げつけられ、頭部から流血し逃避しえない状況を見た。そこで、これを救助すべく接近し、「そういうものを投げる、いつまでも投げるなら拳銃を発射するぞ」と警告した。ところが暴徒は、かえつてますます激しく投石し来たり、自己の身体にまで危険を生じて来たので、もう一度大声で「やめなければ撃つぞ」と叫びながら、自己および他人の身体を防衛するため、銃口を上方に向け一発発射した。これによつて暴徒は五、六歩後へ引き、外国人は逃避しえたので、岩淵も中隊へ逃げ戻つたものである。

一二、大西鉞生の拳銃発射の状況

1 大西の当時の所属部隊、拳銃発射の場所は、原告ら主張のとおりで、その発射数は一発である。警官隊は、祝田町警備派出所附近から、暴徒を退け、中央自動車道路附近に進出し、道路を隔てて、楠公銅像島の暴徒と相対した。大西はさらに暴徒を排除するため、中央自動車道路を渡り、楠公銅像島の芝生の祝田橋寄り角のところに至つて、前面すなわち祝田橋通りと土手の辺りに密集する暴徒と対じしたが、その際、暴徒は、手に手に棒を携え、プラカードの柄をもつて迫り、かつ警官をめがけて投石するなど、極めて険悪な様相を呈していた。その際、同人と行を共にする警官隊の斜め右方から一、二名の者が前へ出たところ、その前面多数の暴徒が突然その警官隊に向つてどつと押し寄せて来たので同人は警官隊が少数で大混乱となり自己および同僚の身体の危険を感じ、これを排除し、かつ警官隊の暴徒排除活動に対する攻撃抑止のため、これら暴徒に向い、中腰にて銃口をやゝ下方にして、一発発射した。これにより、暴徒に多少ひるむ様子はあつたが、拳銃弾による負傷者は見受けない。

一三、鈴木修の拳銃発射の状況

1 鈴木の当時の所属部隊、拳銃発射の場所は原告ら主張のとおりで、その発射数は五発である。

2 警官隊は、祝田町警備派出所附近で暴徒と接触した後、これを祝田橋から中央自動車道路方面に排除したが、警官隊と暴徒は一進一退の状況をくり返した。その間鈴木は、暴徒から投石あるいは殴打され、ために右拇指に全治一ケ月、左肩に全治約二週間を要する傷害を受けた。そのため同人は、自己所属中隊員と離隔し、孤立したところ、暴徒は、なおも祝田橋ないし中央自動車道路方面から投石し、かつ、竹竿、角棒を振り上げ、かん声をあげて襲撃し、約一〇メートルの近距離に迫り、自己の生命、身体に危険を感ずるに至つたので、これを排除するため、右手で拳銃を抜き下方に向けて連続して五発を発射し、暴徒がひるむ隙に祝田町警備派出所前まで後退した。

一四、岩屋満の拳銃発射の状況

1 岩屋の当時の所属部隊、拳銃発射の場所は原告ら主張のとおりで、その発射数は一発である。

2 警官隊は、祝田町警備派出所附近で暴徒と対じし、さらに間もなく同所附近において暴徒と接触したが、暴徒を祝田橋ないし中央自動車道路方面に排除した。岩屋も、その一隊員として、銀杏台上の島中央自動車道路の西側祝田橋手前の芝生角附近に至つた。そのとき同人の周辺には、警官は五、六名しかいなかつたところ、中央自動車道路附近まで後退した暴徒のうち、約四、五〇名が一団となつて右岩屋らに向い投石し、かつ竹竿、角棒を振り上げ、かん声をあげて襲撃してきた。そこで同人らは祝田町警備派出所方面に後退したが、当時岩屋は右足に腫れ物を生じ、逃避は意に任せず他の警官より遅れ孤立するに至り、同人が銀杏台上の島の芝生の中央よりやゝ二重橋寄りまで後退したときには、前記暴徒は後方一四、五メートルの近距離に接近して来たので、自己の生命に危険を感ずるに至り、これを排除するため、拳銃を抜き一発発射し、暴徒がひるんだ隙に祝田町警備派出所附近まで後退し部隊に合流した。

一五、望月文治の拳銃発射の状況

1 望月の当時の所属、拳銃発射の場所は原告ら主張のとおりで、その発射数は二発である。

2 望月は当日午後馬場先門内巡査派出所勤務であつたが、午後四時頃、同派出所入口附近にて警官数名とともに二重橋、楠公銅像島方面の暴徒を警戒中、暴徒五〇〇名がかん声をあげて同派出所に向つて来た。他方銀杏台島および銀杏台上の島の方向からも、約三、四百名の暴徒が手に手に角棒を持ち投石しながら「ポリ公やつけろ」「ポリ公を殺しちまえ」などと怒号して、同派出所を目がけて襲来した。望月は身の危険を感じ、同派出所内に入つたが、暴徒の攻撃はますます激しく、約二〇メートルに接近し、投石により同派出所の窓ガラスは破壊され、同人および他の警官の身体に危険を生ずるに至つたので、これを排除するため、右手で拳銃を抜き、同派出所入口の内側から坂下門の上空に銃口を向け一発発射した。しかし、暴徒はそれにひるむことなく、いぜんとして同派出所に向け襲いかかつて来たので、同派出所入口右側角から右と同方向にさらに一発発射した。すると、暴徒は「あつ・拳銃がある。拳銃がある」といいながら馬場先交番島の北西方面や、楠公銅像島方面に逃走した。

一六、赤崎年雄の拳銃発射の状況

1 赤崎の当時の所属、拳銃発射の場所は、原告ら主張のとおりで、その発射数は四発である。

2 赤崎は、当日馬場先門内巡査派出所勤務であつたが午後三時頃同派出所附近の松の木上(地上より約二メートル半位の高さ)から中央自動車道路方面における警官隊と暴徒との接触の模様を視察していたところ、午後四時頃に至り、右暴徒の中約四、五百名が手に手に角棒を持ち、口々に「おい、交番があるぞ」、「ポリ公ぶつ殺せ」、「やつつけろ」等と怒号しながら、楠公銅像島から馬場先通りを経て同派出所の存する馬場先交番島の方に押し寄せ、同人の登つている松の木から約一〇メートル附近まで接近して来ていたので降りる余裕はなく、その瞬間、同派出所の窓ガラスは破壊せられ、かつ、同所附近警備の警官は四、五名に過ぎず、自己の身体に危険を感じ、これを排除、防衛するため、銃口を二重橋方面上空に向け、連続して二発発射した。そのため暴徒がひるんだので、同人は急いで松の木から降り難を免れたものである。

3 しかるにその後間もなく三、四〇名の暴徒が同派出所裏の千代田グランドの方から再び同派出所に向つて、手に棒を持ち、石を投げ、ば声を発しながら押し寄せて来た。同派出所には前記の如く四、五名の警官しか警備に当つておらず、そのまゝ同派出所は右暴徒に占拠され、かつ、同人および他の警官の身体に危険を生ずる状態に立ち至つたので、赤崎はこれを排除防衛するため、同派出所裏の松の木の間から、千代田グランド後方帝都ホテル上空に銃口を向けて、連続して二発発射したのである。

第四、抗弁(その一)――拳銃発射の正当性

一、昭和二七年五月一日午後四時頃、皇居前広場内にいた群集は、後に述べるように騒じよう罪の適用を受くべき暴徒であり、高橋正夫もその一員であつた。拳銃を発射した補助参加人らは、かかる暴徒を鎮圧すべき任務を負つた警察官であつたて、その拳銃発射の状況は、前記第三記載のとおりである。右発射は、前記第三に詳述のとおりいずれも騒擾罪に該当すべき暴徒の暴力に対し、自己または他人の生命身体を防衛するため、あるいは暴徒排除の職務執行のため、やむをえずしてなされたものであるから、警察官職務執行法第七条、警察官拳銃使用及び取扱規程に基づく正当行為である。

すなわち、補助参加人らは騒擾罪に該当すべき事態のもとにあたつて、暴徒の襲撃にあい(皇居前広場における警察官の負傷者は約六、七百名に達した)、自己または他人の身体に危険を生じ、死の結果さえも発生せしめられるかもしれない急迫の状況にあつて、これを防ぐためも上空または地上に向け、相手方その他の第三者に危害を与えることのないよう努めた状態において、拳銃を発射したものであるから、他人の生命身体に危害を及ぼさないよう細心の注意をもつて発射すべき注意義務を守るに欠くところがなかつたか、あるいはそのような注意義務を守ることが期待できない緊急状態にあつた。のみならず、拳銃発射そのものを正当視される騒擾状態の行なわれている広範囲の場所において多数集団が一丸となつて襲撃してきていた混乱の際であり、発射弾がその集団員の誰れかに当ることを避け得られない状況にあるから、かりに補助参加人らが発射した拳銃弾によつて高橋が死亡したとしても(高橋正夫自身が集団の一員であるが)、補助参加人らにその責任を帰せしめることはできないものといわねばならない。

二、補助参加人らが拳銃発射をするまでの経過および拳銃発射当時の皇居前広場の情況は次のとおりである。

1 第二三回メーデー中央大会と示威行進

昭和二七年五月一日神宮外苑において第二三回メーデー中央大会が開催されたが皇居外苑広場は同年三月一三日すでに使用不許可となつていたのにかかわらずかねて同広場を会場とすることを企画していた日本共産党員、学生、朝鮮人、自由労務者、組織労働者の一部過激分子は、大会の行事が終りに近づいた頃、暴力をもつて演壇を占拠し、およそ一四ないし一五万と推定される参集者を前にして、「人民広場へ行こう」とせん動演説を行ない、これに従わぬ指揮者あるいは報道従事員に対し暴行脅迫を加え、また会場内各所において「人民広場を闘い取れ」、「人民広場へ進軍しよう」と参集者に対しせん動工作を行つた。そして午後〇時三〇分頃集団示威行進が開始されるやあるいはその出発にあたつてスクラムを組んでこれを妨害し、「人民広場へ行け」と呼びかけ(北、西部コース)、あるいは自ら集団の先頭に立つて激しい蛇行進を行いつつ(中、南部コース、)漸次皇居外苑広場へとその歩を進めた。

2 全学連を主力とする集団の馬場先門突破

このうち中部コースを行進した全学連を主体とする約三、四千人は、解散予定地であつた日比谷公園より無許可の示威行進に移り、日比谷交さ点付近において、これを制止解散させようとした丸の内警察職員に対し、プラカード、棒をもつて殴りかかりあるいは投石を行ないこれを突破するや、在日米軍司令部前の路上に駐車中の米軍人、軍属の乗用車を手当り次第たたきこわすなど、ついに暴徒と化して馬場先門に至つた。

当時、馬場先門には三五四名の警察職員が配置されていたが第一方面予備隊長加藤峰治は、殺気だつてすさまじい様相の暴徒に対し同処において制止解散措置を強行することによる混乱を考え、これとの衝突を避ける態勢をとつたところ、暴徒は指揮者の誘導により車道上を前進し、中央自動車道路に至るや、ついに車止めのさくをけり倒し、声をあげつつ砂塵をまいて二重橋前に殺到した。時に午後二時三五分頃であつた。

3 二重橋における警察職員の職務執行とこれに対する暴徒の反抗

ここに至つて、加藤隊長は暴徒の制止解散を決意し、ただちに放送車に対し暴徒の解散を促すことを命ずるとともに、第二、第四中隊に対し暴徒を二重橋前から排除解散せしむべきことを命じた。

ところが暴徒は放送車の解散の警告に耳をかさず、警察職員の職務執行に対し石、木片を投げつけ、こん棒、プラカードの柄、竿などで殴りかかるなどの暴行を加え、一部警察職員は暴徒に包囲されて滅多打ちにされる状況が現出するに至つた。そこで、ついに催涙ガス筒を使用するのやむなきに至つたが、暴徒の数は警察職員の数より圧倒的に多く、警棒よりも長大な棒等を使用し、随所に警察職員を包囲して攻撃を加え来り警察職員の生命に危険を生ずるに至つた。警察職員は再度ガス筒を使用したが、暴徒の攻撃はますます激しく、警察職員の中には身の危険が切迫したので、やむを得ず拳銃を発射し幸うじて危地を脱するものもあつた。

午後三時頃に至り警備部隊は漸次暴徒を制圧し、中央自動車道路以東まで追い退けた。

この間において合計二七筒の催涙ガス筒が使用され三名が合計九発の拳銃弾を発射した。

4 暴徒の後続集団祝田橋突入の状況

(一) 中部コース第二群の突入

(1) 中部コースの全学連の最後尾の早稲田大学の一団約三〇〇名は桜門手前において自由労務者の一団と合流、その総数約二、〇〇〇人が、午後二時五〇分頃、一斉に祝田橋へ向け桜門から押し進んだ。

(2) 彼等は桜門外警備の警官隊の解散命令に応じないばかりか、かえつて警官隊が拳銃を携帯していないのを見て、プラカードの柄、竿などをふるつて警官隊に襲いかかり、祝田橋に殺到した。

(3) 暴徒は祝田橋警備の警官隊の制止にも応ぜず、これに襲いかか、背後の堤の上の暴徒もこれに呼応し、警官数十名に重軽傷を負わせ、皇居外苑広場に突入し、二重橋前から中央自動車道路東側迄後退せしめられた暴徒と合流してその気勢を昂めた。

(二) 南部群の突入

南部コースの大田労連および朝鮮人団体等の一団は、日比谷公園内旧音楽堂前広場付近において中部コース第二群と連絡をとり、プラカードの柄や竿などを手にし、隊形を整えて、かん声をあげながら日本共産党品川区委員会の赤旗を先頭に午後三時頃、桜田門より祝田橋を経て皇居外苑広場に突入した。

このため楠公銅像島の暴徒の気勢は昂揚した。

5 増強せる暴徒の広場内における暴行脅迫とその鎮圧

(一) 警察職員の増強

第七方面予備隊二六八名、第六方面予備隊(第二中隊を除く)二六二名、第一方面予備隊第三中暴八〇名は、午後二時五〇分ないし午後三時頃暴徒鎮圧のため右広島に到着した。

(二) 暴徒の勢力とその様相

祝田橋が中部コース第二群に突破された後は続々と同所から広場内に入つて、しだいにその数を増し、大いに気勢が昂るに至つた。とりわけ大田労連および朝鮮人集団は、二重橋方面へ向かい、銀杏台およびその南の砂利敷路面に集結した。このため左翼を包囲される危険を感じた第一方面予備隊等は中央自動車道路西側より祝田町警備出張所前の砂利敷十字路上に後退集結した。暴徒は警察側の放送車によるくり返しての解散命令にも応ぜず、楠公銅像島の暴徒は、前記警官隊の後を追つて銀杏台上の島に進出集結し、前記銀杏台に集結した集団と呼応し、警官隊に棒を振り上げ、投石する等の暴行脅迫をなしつつ予備隊と対じしたが、ややあつて銀杏台の暴徒は銀杏台上の島の集団と合体し予備隊の右翼を圧迫した。これら約八、〇〇〇人の暴徒は、警官隊に石塊を雨霰の如く投げ、棒や竿を振りかざし、ば声を沿びせながら約二〇米の近距離まで肉薄した。

(三) 鎮圧

警官隊には、暴徒の投石による負傷者が続出し、しかもなお暴徒は警官隊に肉迫して来たので、第七方面予備隊副隊長米川宗治はこのままでは警官の生命、身体にも危害が及び、ついには職務執行は不可能に帰すると判断し、午後三時二五分頃暴徒鎮圧のため隊員に前進を命じた。これと同時に暴徒側もかん声をあげ、こん棒、竹槍、竹竿等を振りかざし、石塊や空壜を投げつつ警官隊に一斉に襲いかかつたので、警官隊も警棒をもつてこれに対応したが、突撃した暴徒によつて四分五裂せられるに至り、数において優勢な暴徒は各所において孤立した警官隊を包囲して、乱打し、よつて青木義彦巡査に再起不能の重傷を負わせて拳銃を奪取したのを始めとし、四百余名の警官に傷害を与え、あるいは中央自動車道路を通行する一般乗用車、駐留軍用トラック等に投石、投棒するなどの暴行を加えた。警官隊は暴徒の熾烈な攻撃のため、しばしば危地に陥つたので、暴徒の攻撃を挫き、自己または同僚の危急を救うため、催涙ガス筒合計四六本を使用し、さらに一六名が計六一発の拳銃弾を発射して危地を脱出し、午後五時頃までに広場内の暴徒を完全に退散せしめた。

前記状況下における拳銃の発射は警察官職務執行法、警察官けん銃及び取扱規程に基づく正当行為であることは勿論である。

6 暴徒による自動車の焼打ちその他の暴行

午後三時半頃から四時頃にかけて祝田橋付近の暴徒は、同所付近において

(一) 都電通り付近の乗用車一四台を焼毀損壊し、警視庁のサイドカーを奪取し、消防夫に投石等をして一三名に重傷を負わせ、

(二) 警官四名をこん棒等で殴打して重傷を負わせたうえ濠に突き落し、さらにこれを救助せんとした警官二名をこん棒で乱打して重傷を負わせ、両名の拳銃を奪取し、内一名の警官を昏倒せしめ、さらにこの状況をみて阻止せんとした通行人を竹竿で乱打し、

(三) 米軍水兵二名を濠に突き落して投石し(内一名は人事不省となる)、これを制止しようとした通行人も濠に突き落し、

(四) 濠に落ちた警官を救出するためジープで急行中の警官一四名を包囲して攻撃を加え、警官一名を追いつめて、こん棒で殴打して昏倒せしめた。

7 静謐の阻害

前記の騒擾は、さらに有楽町、丸の内方面に波及し、かくして皇居前広場および日比谷公園ならびにその周辺一帯の人々は生命、身体、財産に危険を感じ、あるいは門扉を閉鎖し、あるいは消火の準備をなし、または婦女子等を退避させるのやむなきに至り、また都電、都バスも通行不能となるに至つた。

第五、抗弁(その二)――時効の主張

一、原告らは昭和二七年五月一日すでに不法行為に因る損害および加害者を知つたのであるから、その損害賠傷請求権は、本訴提起当時(昭和三五年五月一三日)すでに時効により消滅している。

二、民法第七二四条にいう「加害者を知りたる時」とは、通常の場合加害者と損害賠償義務者とが同一人であるから規定されたもので、加害者と損害賠償義務者とが異なる場合には、「加害者を知りたる時」とあるのは損害賠償義務者を知りたる時と解すべきである。すなわち、加害者とは賠償義務者をいうべきである。

そして、国家賠償法第一条によれば、国または公共団体の公権力の行使にあたる公務員が、その職務を行なうについて、故意または過失によつて違法に他人に損害を加えたときは、国または公共団体は、当然これを賠償する責に任ずるものであるから、被害者またはその相続人において加害者が公務員であることを知れば、これらのものはそのときから国または公共団体に対し損害賠償の請求をなしうるものである。したがつて、その時効の起算点はこれらの者において加害者が公務員であることを知つた時であるというべきである。

原告らは、高橋正夫が昭和二七年五月一日皇居前広場内において死亡したことを当日知るとともに、その頃から、その死亡は警視庁警察官の職務執行中における違法な拳銃発射によるものとして、これを非難抗議した事実があり、また当日警察官が拳銃を発射したこと、高橋の死亡が拳銃弾によるものであることが当時新聞紙上に明確にされた事実がある。

これらの事実からみれば、原告らは高橋正夫の死亡が警視庁警察官の行為によるものであること、したがつて賠償義務者は被告であることを高橋正夫死亡当時に知つたものである。

第六、抗弁(その三)――過失相殺

かりに、被告に損害賠償の責があるとしても、高橋正夫には次に、述べるように重大な過失があるから、損害賠償額を定めるについては、これを斟酌すべきである。

一、高橋正夫は、示威行進解散後、一旦東京都庁内職務に帰りながら、皇居前広場内において、警官隊と暴徒との間に大規模な第一次衝突があつたことを知るに及び、職務を放棄し、あえて危険な同広場に侵入したものである。

二、当日、右広場がその使用を禁止されていたことは公知の事実であり、警察官は同広場への示威行進の立入を制止し、かつ、同広場内に侵入した暴徒に対しては数次にわたり解散退去の警告をなし、とくに、第一次衝突後は、一般人の交通さえ遮断した場所であつた。

三、右広場内外の暴徒の行動は、まさしく騒擾罪に該当すべきものであつたが、同訴外人は、その一員として広場内の暴徒に加わり、警官隊に反抗したものである。そのことは、同訴外人の死亡当時着用していた衣服のポケット内に数個の石塊が存在していたことによつても明らかである。

四、仮りに、同訴外人が暴徒の一員でなかつたとしても、前記の如く危険きわまりない状況の右広場には立入るべきでなく、また立入つた際にも、警察官の警告の放送に従つて速やかに退去すべきであつた、しかも、同訴外人は、自由に退去し得べき状況であつたのにもかゝわらず、あえて退去せず、暴徒と行動をともにしたものである。

第三部証拠関係<略>

理由

第一当事者間に争いのない事実

1  訴外亡高橋正夫は、原告らの長男であり、昭和二五年一〇月頃から被告東京都の民生局保護課に主導補として勤務していた。

2  昭和二七年五月一日、第二三回メーデー中央大会が神宮外苑において行なわれた。皇居前広場は、前年来、メーデー会場として使用することが政府によつて禁じられていたが、昭和二七年四月二八日、東京地方裁判所は、政府の右禁止措置を違法とする判決を下した。しかし、政府は依然禁止の態度を固執した。

3  多くのメーデー参加者達が皇居前広場に歩を進め、午後二時三〇分頃、続々と二重橋前に到着したが、これを解散させようとして、警視庁第一方面予備隊第一、第二、第四の各中隊の警察官約三〇〇名が、警棒、催涙ガス箇、拳銃を使用して、実力を行使した。

4  一方、次々と同広場に到着したメーデー行進参加者達は銀杏台上の島に集結をはじめたところ、警視庁第一方面予備隊本部、同三ケ中隊、第六方面予備隊本部、同二ケ中隊、第七方面予備隊本部、同三ケ中隊、渡辺部隊および丸の内部隊の各警察官六百数十名が実力をもつてその解散とメーデー参加者達の広場外への排除をはかり、午後三時二〇分頃、参加者の集団に対し、警棒を使用、四十数発の催涙ガス箇および拳銃を使用した。

5  高橋正夫は、東京都職員労働組合の一員として、メーデー中央大会に参加し、大会終了後、午後零時三〇分頃から各地区別に集団示威行進が開始され、同人は中部コース(神宮外苑―赤坂見附―国会議事堂―日比谷公園)に所属して行進し、中部コースの諸団体は午後二時頃日比谷公園に到達し、次々に解散した。解散後、高橋正夫は、一旦東京都民生局保護課の庁舎に帰つたが、東京都職員労働組合の組合員らと共に祝田橋または馬場先門から皇居前広場に入り、他の参加者達と共に銀杏台上の島附近に集まつていた。

6  前記4の事件のおこつた際に拳銃を発射した警察官の氏名、所属、発射時刻、場所、および少くとも争いのない発射弾数は別表記載のとおりである。

第二メーデーに対する警視庁の警備実施

一、警戒総本部の設置と警備方針

<証拠>によれば、次のような事実が認められる。

1  東京都における第二三回メーデー中央大会は、日本労働組合総評議会(総評)等が中心となつて実行委員会が結成され、早くからその開催が計画、準備されていた。総評は、右大会を行う会場として皇居前広場を使用すべく、昭和二六年一一月一〇日、厚生大臣に対しその使用許可申請をなしていたが、昭和二七年三月一三日、厚生大臣は不訴可の処分をした。そこで右実行委員会は、右処分には不満であつたが当日の会場を明治神宮外苑絵画館前広場に予定し、同所で第二三回メーデー中央大会式典を行つたのち、東部コース(神宮外苑―市ケ谷見附―後楽園都営グランド裏)、西部コース(神宮外苑―青山四丁目―渋谷東急本社前)、北部コース(神宮外苑―新宿一丁目―新宿西口)、中部コース(神宮外苑―赤坂見附―国会議事堂―日比谷公園)、南部コース(神宮外苑―六本木―田村町―市政会館裏)の五コースに分れて集団示威行進を行うこととし、同年四月二六日、東京都公安委員会に対しその旨の許可申請をなした。

東京都公安委員会は、右申請のとおり、許可した。

2  東京都警視庁では、右メーデー式典ならびに集団示威行進が行なわれるに当り、警備第一部長増井正次郎の指揮下に、同部警備課長島田純一郎が当日の警備計画を立案した。同部長は、同年四月二七日、関係各部長ならびに警視総監田中栄一の決済をも受け、警備計画を確定した。この警備計画の内容は、大略、次のとおりである。

(一) 警備実施の基本方針として、

(1) 実行委員会が企画し、東京都公安委員会の許可を受けた第二三回メーデー中央大会式典ならびに集団示威行進の行事自体には干渉せず、主催者の自主的統制による規律を尊重する。

(2) 右メーデー行事も、不法な事犯あるいは越軌行為があつた場合にはすみやかにこれを取締る。ただし検挙は事後に行うこととし、無用の混乱を避ける。

(3) メーデー行事が終了した後にも各地で無届の集会、集団示威行進等の不法事犯が発生する虞れがあり、これに対しては厳重な取締を行う。

との三項目を定めた。

(二) 右の基本方針に基づく警備を実施するために、警視庁に、増井警備第一部長を総本部長とする警戒総本部を設置し、同総本部は田中警視総監の指示の下に、各方面本部長を指揮して、都内全域の警戒、警備の実施を行う。

(三) 第一ないし第七の各方面本部長は、各管内地域における警備について責任を負うとともに、特にメーデー行事について、次のとおり警備責任を分担する。すなわち、

第一方面本部長は、メーデー集団示威行進のうち、中部コースおよびその解散地である日比谷公園附近の地域(皇居前広場を含む)、第二方面本部長は同南部コース、第三方面本部長は同西部コース、第四方面本部長は同北部コース、第五方面本部長は同東部コース、第六方面本部長は、大会会場である明治神宮外苑、および第七方面本部長は、前記第二三回メーデー中央大会とは別に墨田区錦糸町において石川島造船所関係のメーデー集会が行なわれるので、この大会場の、各警備を分担して実施する。

(四) 各方面管内の各警察署長は、各方面本部長の指示に従つて所轄管内区域の警備を実施する。

(五) 第一ないし第七方面予備隊の各部隊は、警戒総本部に直属し、あるいは各方面本部に所属して警備実施を担当する。その分担は次のとおりである。すなわち、第一方面予備隊四個中隊は、同方面本部長の指揮の下に中部コースならびに皇居前広場を含む解散地附近を、第二方面予備隊のうち二個中隊は同方面本部長の指揮の下に南部コースを、第三方面予備隊のうち二個中隊は同方面本部長の指揮の下に西部コースを、第四方面予備隊のうち二個中隊は同方面本部長の指揮の下に北部コースを、第五方面予備隊のうち二個中隊は同方面本部長の指揮の下に東部コースを、第六方面予備隊のうち二個中隊は同方面本部長の指揮の下に大会会場である明治神宮外苑を、第七方面予備隊のうち一個中隊は国会周辺を、それぞれ警備するために出動する。そのほかの、第二、第三、第四、第五、第六の各方面予備隊の各二個中隊および第七方面予備隊の三個中隊合計一三個中隊は、警戒総本部直轄部隊とし同本部長である増井警備第一部長の指揮下に入るが、本部からの出動命令が出るまでは各方面予備隊本部に自隊待機する。

(六) さらに、三田警察署長であつた渡辺清警視を部隊長として、水上警察署員をもつて構成する一個中隊(中隊長は同警察署の岡本警部)、高輪警察署員をもつて構成する一個中隊(中隊長は同警察署の吉津警部)および三田警察署員をもつて構成する一個小隊(小隊長は同警察署の久保田警部補)ならびに部隊本部、以上の本部、二個中隊一個小隊の部隊を臨時に編成し(以下、この警察官部隊を渡辺部隊という。)、この部隊は第一方面本部長の指揮の下に、第一方面予備隊とともに、皇居前広場の警備を担当する。

また、丸の内警察署長であつた堀口友次郎を部隊長とし、同署員をもつて八個小隊一個班の一個中隊を編成し(以下、この中隊を丸の内中隊という。)、中部コースの解散地である日比谷公園ならびにその周辺地域の警戒に当らせる。

(七) 右のように、都内各地に各方面予備隊を分散配置し、かつ本部直轄部隊とした一三個中隊も各方面予備隊本部に自隊待機させたのは、当時の社会情勢からすれば、各地域に同時に不法事犯が発生する可能性があつたためであるが、皇居前広場には相当数の群衆が入ることも予想されていたため、皇居前広場を警備上の要点の一つとして部隊の配置が行なわれた。

3  警視庁は、四月二八日、管内警察署長会議を招集した。同会議の席上、田中警視総監ならびに増井警備第一部長は、右の警備計画にもとづいて、各方面部長ならびに各方面予備隊長、各警察署長にメーデー当日の警備を命令するとともに、さらに詳細な指示を行つた。その際、増井警備第一部長は、各方面予備隊の輸送計画について、何らかの事態が起つた場合には直ちに集中できるようにそれぞれの部隊において態勢を整えておくよう指示した。

4  中部コースならびにその解散地である日比谷公園および皇居前広場を含むその周辺の警備を担当した第一方面本部長倉井潔は、四月三〇日午后一時、同方面本部において、所轄の関係署長ならびに隊長会議を招集し、同地域の警備実施についてさらに具体的な指示を行つた。この会議には、倉井本部長、仁藤次長、および本部付の外川警部、大井警部、五十嵐警部が本部側として出席し、さらに第一方面予備隊長加藤峰治、丸の内署長、愛宕署長、赤坂署長、三田署長、神田署長、麹町署長らが出席した。席上、方面本部から、各部隊、署の任務、装備等について次のような指示がなされた。

(一) メーデー行進の中部コースの解散地である日比谷公園および南部コースの解散地である市政会館裏においては、行進参加者がいずれも現地に停滞しないで逐次解散し、中部コース行進参加者は日比谷公園有楽門を通つて主として有楽町の方へ、南部コース行進参加者は新橋の方へ解散していくということを主催者側とも話し合つている。したがつて、右解散地点附足における警備方針は、次のとおりとする。

(1) 日比谷公園有楽門から日比谷交差点へ解散してくる行進参加者は、国電有楽町駅の方面および東京駅の方向に誘導するよう交通整理を行う。

(2) メーデー行進のコースならびに解散地以外の場所における集会、集団行進等は全て不法であるから、これに対しては警告を発し、制止して解散の措置を講ずる。

(3) ことに皇居前広場は、管理当局者がメーデー会場として使用させないという態度を維持しているので、行進参加者が解散后に、三三五五、広場の中に入ることは阻止のかぎりではないが、不法な集団行進の形で立ち入ることは阻止する。

(4) 皇居前広場に三三五五入つた群衆が無許可の集会等を行う場合には実力で解散させる。この場合、群衆を広場から神田方面に流すようにし、中部コース解散地から有楽町に流れてくる群衆と合流させないようにする。

(二) 第一方面本部所轄管内のうち、有楽町駅附近以東は築地警察署長が担当し、日比谷公園ならびにその周辺は、臨時編成の丸の内中隊が担当する。皇居前広場は、第一方面予備隊および臨時編成の渡辺部隊が担当する。右両部隊は同一区域の警備を担当するが、渡辺部隊は、混成部隊でもあるので、主として広場の各入口を警備し、広場内で不法行為が発生した場合にも第一次的にはこれの制止当るが、実力による制止、解散等の措置は第一方面予備隊がこれに当る。

(三) 催涙ガス筒の使用が必要と予想される場合には、各部隊において特別にガス班を設置する。

5  このようにして、皇居前広場の警備を直接指揮することになつた第一方面本部では、指揮下の各警察署、各警察官部隊に対し、部隊の整備と配置を命じた。

二、警察官部隊の装備と配置

次に、<証拠>によれば、以下の事実を認めることができる。

1  四月二八日の警視庁における署長会議の後、警戒総本部をはじめ、警視庁管内の各方面本部、各方面予備隊、各警察署では、前示警備計画にもとづいて、それぞれ担当の警備実施のため準備がすすめられた。その際、倉井第一方面本部長は、警備に際して警察官に拳銃を携行させるべきかどうかにつき、総本部の指示を仰いだ。これに対し、総本部長である増井警備第一部長は、各方面本部長が警備の実情に鑑みて拳銃携行の許否を決すべきものであるとし、その旨方面本部長に指示した。

2  丸の内警察署長堀口友次郎は、同署員のうち、五月一日の通常勤務に服する者を除いた二七四名をもつて中隊を編成し、これを八個小隊一個班に編成した。このうち、二個小隊には私服を着用させ、情報蒐集ならびに証拠の保全を任務とし、のこる各小隊、班には制服、制帽あるいはヘルメットを着用し、武器として警棒を所持させた。拳銃については、前示四月三〇日の方面本部における関係署長、隊長会議において、倉井第一方面本部長から同部隊は拳銃を所持しないようにとの指示を受けていたため、全員、拳銃は携行しなかつた。さらに一個班は、特別班として催涙ガス筒を所持した。五月一日、朝、堀口中隊長は、丸の内署に全中隊員を招集し、警戒総本部ならびに第一方面本部の警備方針ならびに所要の注意事項を訓示した。そして、中隊本部を有楽町警察官派出所に設置するとともに、同派出所裏に一個小隊、日比谷公園事務所内に一個小隊、東京地検構内に一個小隊、日比谷公会堂に一個小隊、を各配置待機させ、さらに一個小隊は連合最高司令官リッジウエイ大将の身辺警戒要員として本署に待機させ、一個小隊は交通整理部隊として警戒区域内主要交差点に分散配置し、特別班一個班は、催涙ガスを使用して警備活動を行う場合に備えて本署に待機させた。私服部隊の二個小隊は、情報収集、証拠の蒐集、保全のため、日比谷公園の内、外の管内要所に分散配置した。

なお、丸の内警察署の通常勤務に服した同署員は、同日も通常の制服、装備(拳銃、警棒の携行)をして、勤務に着いていた。

3  三田警察署長渡辺清は、渡辺部隊本部として指揮班、連絡班計一八名、水上警察署の岡本警部の下に一個中隊七四名(岡本中隊)、高輪警察署の吉津警部の下に一個中隊六四名(吉津中隊)、三田警察署久保田警部補の下に一個小隊三〇名(久保田小隊)を編成した。同部隊装備は制服制帽を着用し、武器として警棒を所持した。拳銃については、前記関係署長会議において、倉井第一方面本部長の指示にもとづき、これを携行させないこととした。

五月一日、渡辺部隊長は、三田警察署屋上に部隊員全員を招集し、今回の警備実施については、第二三回メーデーが独立后初めてのメーデーであつて、今后の警備の実施にも重大な影響を及ぼすから、遺漏のないようにと訓辞するとともに、警戒総本部ならびに第一方面本部の警備方針にもとづいて、馬場先門、祝田橋および桜田門の三つの皇居前広場に通ずる通路の警備を主として警備するが、その際、右三ケ所の通路の交通禁止を行うものではないから、車道は自動車が多く通行し、たとえ不法集団行進があつても車道を通行することはないので、主として、その歩道を遮断することによつて任務が達せられる旨の指示を与えた。そして、皇居前広場内の馬場先門派出所に部隊本部を設置し、当初の配置として、本部員を同派出所に、岡本中隊を馬場先門に、吉津中隊を祝田橋に、久保田小隊を桜田門にそれぞれ配置するとともに、本部員二名を、伝令として方面本部に派遣した。

(一) 第一方面予備隊では、四月三〇日、第一方面本部における関係署長、隊長会議の後、同予備隊長加藤峯治が同予備隊長室に副隊長桜井里、予備隊本部付警部高橋徳次、および中村第一中隊長、長岡第二中隊長、井上第三中隊長、永井第四中隊長を集めて、同予備隊の警備方針を指示した。すなわち、同隊長は、さらに具体的に、第三中隊は、第一方面本部長から指示のあつた警視庁本部庁舎ならびに国会の警備の一部を担当するため同本部長の直接指揮下に入る、予備隊本部ならびに第一、第二、第四の各中隊は加藤第一方面予備隊長の指揮下に入り、皇居前広場内の警備を担当する、このうち、第一中隊は桜井副隊長の指揮を受けて馬場先門の警備を実施し、第二、第四中隊は祝田橋において警備を実施する、警備実施の方針は、皇居前広場に侵入しようとする集団がある場合にはこれを入口で阻止する、皇居前広場内において不法な集会、集団行進等が発生した場合にはこれを実力で解散させ、神田方面に群衆を流す、との指示を行つた。

(二) 第一方面予備隊は、本部として、隊長および副隊長のほか、特別班である催涙ガス筒を所持するガス班二一名を含めて、操車係二〇名および、記録係、写真係、救護係、伝令等合せて六〇名をもつて構成し、第一中隊が三個小隊一二〇名、第二中隊が三個小隊九六名、第三中隊が三個小隊一一五名、第四中隊が三個小隊をもつて編成され、各中隊にも指揮、記録、救護を担当する特別班が数名の人員をもつて構成された。同中隊の装備は、制服を着用し、ヘルメット又は鉄兜を着帽し、全員が警棒を所持した。さらにガス班は、当初、三〇個の催涙ガス筒を所持した。

そして、通常は全員が拳銃を携行しているのであるが、当日は、加藤同隊長の指示により、警部以上の警察官および催涙ガスを所持するガス班、指揮、記録、救護を担当する特別班のみが拳銃を携行することとし、警部ならびに特別班員五三名が銃弾六発を装填して拳銃を所持した。

(三) 五月一日、朝、加藤第一方面予備隊長は、同隊本部に全隊員を招集し、前示の警備方針を全隊員に訓授した。その際桜井同副隊長は、警棒の使用法ならびに拳銃を奪取されないように、指示を与えた。同日午後零時頃、まず第三中隊うのち井上中隊長に指揮された第一、第二小隊八〇名は国会警備のため、第三小隊は警視庁本部庁舎警備のため、それぞれ配置につき、同零時三〇分頃、桜井副隊長に指揮された第一中隊は馬先門に、第二、第四中隊は祝田橋に到着して配置についた。加藤同予備隊長は、現地における同予備隊本部を馬先門派出所に設置し、自ら、第二、第四中隊を直接指揮した。

5(一)  第七方面予備隊は、本部ならびに第一ないし第四中隊をもつて編成されており、当時予備隊長は病欠していたため、副隊長である米川宗治警部が全隊を指揮していた。同予備隊は、全員、制服、ヘルメット、編上靴、を着用し、武器として警棒および拳銃を携行した。拳銃については全員が弾丸一八発づ を所持した。

(二)  同予備隊のうち、第四中隊は、警戒総本部の計画にもとづき、開会中の国会警備のため出動し、本部ならびに第一ないし第三中隊は、錦糸町における石川島造船所関係のメーデー集会の警戒のため自隊に待機していたが、同集会は、同日一一時頃平穏に終了したため、出動することもなく、警戒総本部の指示をまつて、引きつづき自隊本部に待機していた。同隊は一一時三〇分頃、総本部長である増井警備第一部長から、「第七方面予備隊は二個中隊、警視庁第一会議室まで前進待機せよ。」との出動命令を受け、同予備隊第一、第二各中隊合計一五七名が同会議室に前進待機した。さらに午後一時三〇分頃、残る同予備隊本部ならびにに第三中隊合計一一一に対しても、同様の出動命令が出され、第七方面予備隊は本部ならびに第一ないし第三中隊全員が警視庁第一会議室に前進待機することとなつた。

6  第三方面予備隊は、本部ならびに第一ないし第四の各中隊をもつて編成されていたが、同日、同方面予備隊長石井考一は、渋谷警察署内に本部を設置するとともに、メーデー行進西部コースの警戒に当るため、第一中隊を同警察署に、第四中隊を旧青山警察署跡にそれぞれ前進待機させるとともに、第二、第三各中隊一六〇名を副隊長小川登警部の指揮の下に、警戒総本部の統率下に自隊待機させた。同予備隊は、全員、制服、ヘルメットを着用し、武器として、警棒および拳銃弾丸を携行した。

7  第四方面予備隊では、西原弘之同予備隊長が、同予備隊本部ならびに第一、第四各中隊をもつてメーデー行進北部コースの警戒に当らせるため、新宿駅西口に出動させ、また警戒総本部直轄部隊として、坂田副隊長の指揮下に第二、第三中隊を自隊待機させた。同予備隊は、写真班数名をのぞく外、全員制服、ヘルメットを着用し、警棒、拳銃を装備した。

8  同日、そのほかの各方面予備隊も、ほぼ同様の装備をなして、前示警備計画にもとづいた部隊配置をなした。そして、第七方面予備隊に対し、警視庁第一会議室まで前進待機せよとの出動命令が出されたころ、警戒総本部の直轄部隊として自隊待機していた第六方面予備隊本部ならびに二個中隊に対しても同様の出動命令が出され、右部隊も、警視庁まで前進、待機した。

このような配置と装備で各警察官部隊は、皇居前広場を中心とした都内各地域での警戒体制に入つた。

三、祝田町警備出張所前における衝突までの警察官部隊の動向

<証拠>を総合すると、以下の事実が認められる。

1  馬場先門における警備活動

(一) 馬場先門に配置された渡辺部隊岡本中隊は、現地において、渡辺部隊長から、次の命令があるまでは三分の一の配置でよい、部隊は通行の邪魔にならないように歩道の片側に配置につけ、との指示をうけて、配置についていたが、一時四〇分頃、第一方面本部からメーデー行進の群衆が桜田門から皇居前広場に入る公算が大きいとの情報を受けたため、岡本中隊のうち一個小隊を桜田門に増強するため配置を換え、さらに渡辺部隊本部員を祝田橋に派遣した。一方、第一方面予備隊第一中隊は、馬場先門派出所前道路上に待機した。さらに午後一時一五分頃、祝田橋に配置された同予備隊第二、第四各中隊に対し、馬場先門派出所まで前進せよとの命令が出され、右各中隊も馬場先門前に集結して待機した。

(二) メーデー行進が国会周辺を通過していたころ、田中警視総監は、メーデー行進の状況について報告を受けデモの状況から当初の指示どおり解散させることは困難であろうから、阻止しえない場合には警察力を結集して措置を講じなければならないという趣旨の指示を各警察官部隊に伝達させた。

(三) 二時二〇分頃、メーデー行進中部コースを行進して解散地である日比谷公園に到着した学生を中心とする労働者、市民の一隊三、四千名は、そのまま日比谷交差点を通過し、馬場先門方面に向つていたがそのころ、渡辺部隊本部および岡本中隊一個小隊も再び馬場先門に集結するとともに、加藤第一方面予備隊長は、第一、第二、第四各中隊に対し、配置の命令を出した。そして、第一中隊は、馬場先門車道上に、東側を向い横隊形で阻止線をつくり、第二、第四中隊はその後方歩道上に縦隊形をもつて第一中隊を援護する隊形を作つた。馬場先門前に到達したメーデー行進参加者の一隊は、第一中隊の阻止線の前で一旦停止し、隊形を横二、三〇名の隊に組みなおして、警察官と対じした。そこで加藤第一方面予備隊長は、前示田中警視総監指示にもとづいて、この学生の第一梯団は入れる、その代りこれが入つたら、その後は入れないとの趣旨の命令を出し、第一中隊の阻止線を解いて、馬場先通車道を開け、歩道上に退いた。前記集団はかん声を上げて、前示隊形のまま馬場先通を広場内に入り、二重橋方面に向つた。

2  二重橋前における警備活動

(一) 第一方面予備隊第一中隊は、群衆が通過した後再び馬場先通に阻止線をつくつた。加藤第一方面予備隊長は、第二、第四各中隊を馬場先派出所前に集合させ、「二重橋を守れ、俺についてこい。」と命令し、同中隊を二重橋方面に向わせた。第二中隊長長岡武警部は同中隊を率いて駈足で前進し、御森林島寄の砂利敷路面を通り、桜田濠側の鉄柵に達し、左に方向を変えた。同中隊長は、加藤隊長の前示命令をもつて前示集団の制止、解散を命令したものと解したので、二重橋前に集団をなしていたメーデー行進参加者と二重橋との間に出るべく、前示鉄柵添いに三分の二ほど二重橋寄に進んだ所で、中隊員に「くさび形隊形進め」の命令を発した。馬場先門から広場に入つたメーデー行進参加者は、二重橋前に一群の集団となつて集合していたがこれに対し右長岡中隊長の指示により同中隊第一小隊は、不完全なくさび型隊形をとつて、警棒を使用し、群衆を排除して、前進した。しかしながら同小隊は群衆から反撃を受け、第二、第三小隊もそのまま群衆と乱闘状態に入つた。

(二) 一方、馬場先門に阻止線をはつていた第一中隊も、これを渡辺部隊岡本中隊に引きついで、二重橋に向つた。二重橋前では、第二、第四中隊が祝田橋の方角に向つてほぼ横隊形となつて集団を押しつけ、排除活動を行なつていたが、その際催涙ガス筒二十数発が使用された。第一中隊は、第二、第四中隊の左翼に合流し集団を解散させるべく、警棒を使用した。警察官部隊は、この集団から、投石、あるいは棒等で抵抗を受けたため、一進一退しながらも銀杏台上の島の芝生上に集団を押しあげ、さらに祝田橋方向へ、中央自動車道路上まで前進してこの集団を排除した。このときの排除活動に際し、警察官松本嘉助ほか二名が合計九発の拳銃を発射した。第一、第二、第四各中隊のこの排除活動により、二重橋前にいたメーデー行進参加者の集団は、中央自動車道路東側の楠公銅像島上まで後退した。

加藤第一方面予備隊長は、そこで、「止れ」の号令を出し、各中隊を停止させた。

3  警察官部隊の増援

(一) 二重橋前から群衆を排除してきた第一方面予備隊第一、第二、第四各中隊は、中央自動車道路添いに、銀杏台上の島芝生上左から第一、第四、第二各中隊の順に横隊形をもつて停止していたが、加藤第一方面予備隊長は、前示排除活動の状況に鑑み、ガス班が所持していた三〇筒の催涙ガス筒をほとんど使い尽していたため、催涙ガス筒五〇個をさらに補充するよう指示し、さらに皇居前広場内からの群衆の排除活動をするには、すでに配置されている警察官部隊だけでは困難であると判断し、第一方面本部に対し、警察官部隊を五個中隊ほど皇居前広場に応援として派遣するよう要請を出した。

(二) 警戒総本部では、皇居前広場に群衆が入ることを阻止できなかつたことの善後策としてすみやかに各方面予備隊を皇居前広場内に集中させて措置を講ずるべく各方面本部に各地域の状況を打診したところ、各方面本部はそれぞれの担当地域の警備に忙殺されていたので、前示のとおり、とりあえず第六、第七方面予備隊の本部直轄部隊のみを前進待機させて第一方面本部長の指揮下に入るよう指示した。その後まもなく、第一方面本部から児玉警部が警戒総本部に駈けつけて、警視総監および警戒総本部長に対し馬場先門から入つた集団と第一方面予備隊との衝突の状況の報告があり、応援部隊の要請がなされた。そこで、警戒総本部では直ちに皇居前広場に警察官を応援に派遣することを決定し、警視庁第一会議室に待機させていた第七方面予備隊三個中隊、および第六方面予備隊二個中隊を皇居前広場に転進させるよう指示するとともに、メーデー大会場である明治神宮外苑広場を警備していた第六方面予備隊二個中隊もできるだけ早く皇居前広場へ転進するよう指示した。

(三) 午後二時五〇分頃、増井警備第一部長は、第七方面予備隊を警視庁中庭に集合させ、皇居前広場にデモ隊が乱入しているので、第一方面本部の指揮の下に、既に配置についている加藤第一方面予備隊長と協力してこれを排除せよ、との命令を下した。米川宗治第七方面予備隊副隊長は、この命令の趣旨を全員に伝達するとともに、直ちに同予備隊本部、第一、第二、第三各中隊を順次縦隊形に整列させて、駆足で皇居前広場へと率いた。同予備隊は、桜田門から広場内に入り、中央自動車道路に至る舗装道路を東に、桜田濠が北にまがる角のところまで進み、一時同所で広場内の状況を観察したのち、さらに東に部隊を進め、銀杏台上の島芝生の東南の角に縦隊のまま隊を止めた。そのころ、祝田橋からさらに日比谷公園から進んできたメーデー行進参加者の大集団が広場に入ろうと行進してきたため、米川副隊長は、祝田橋においてこれを阻止することはこのましくないと判断し、同部隊に「左へ横隊」の号令をかけ、銀杏台上の島芝生上に中央自動車道路にそつて、南角から第一中隊、本部、第二中隊、第三中隊の順に横隊形に配置して集団のうごきに備えさせた。

そのころ、第六方面予備隊二個中隊も、同様に皇居前広場に転進してきた。

(四)警戒総本部ではその後、あらためて第一方面本部の末松警部から広場内の情勢について報告を受け、さらに部隊の増援の要請を受けたため、直ちに新たな措置を命じた。すなわち、第一に、皇居前広場に各方面予備隊を集中させることとし、まず、国会警備についていた第一方面予備隊第三中隊を至急皇居前広場に配置し、第六方面予備隊の一個中隊、第三方面予備隊の各部隊および、第四、第五方面予備隊に相前後して同広場に配置するよう指示した。その後第二方面予備隊にも同様の指示をなした。第二に、中央自動車道路など皇居前広場内外の交通の混乱を回避すべく皇居前広場に至る各道路の交通遮断措置をとるよう指示した。第三に、倉井潔第一方面本部長に対しては、現地で全部隊を掌握して指揮するため、同本部を皇居前広場に前進させるよう指示した。

四、祝田町警備出張所前および楠公銅像島における警備実施

<証拠>を総合すれば、次の事実が認められる。

1  鍵型隊形の編成

(一) メーデー行進中部および南部コースを行進した労働者を中心とする群衆は、日比谷公園から祝田橋を通り皇居前広場へ、ぞくぞくと入り、中央自動車道路上の右側を北へ進み、一部は楠公銅像島芝生に入つて、馬場先門より先に広場へ入つていた前記集団と合流し、一部は馬場先通まで北進して銀杏台島の芝生上に至ろうとしていた。中央自動車道路にそつて横隊形に待機していた第七方面予備隊および第一方面予備隊の各部隊は、この中央自動道路を進む集団から投石等も受けた。そこで、加藤第一方面予備隊長は、同予備隊に対し、部隊を集結させて「二重橋の方に後退しろ。」と命じ、同部隊を率いて駈足で祝田町警備出張所附近に転進させた。米川第七方面予備隊長は、同予備隊を銀杏台上の島芝生上まで後退させたが、同芝生にも集団が入りはじめたため、そのまま部隊を左に向け、第三中隊を先頭に祝田町警備出張所に転進させた。

(二) 第一方面予備隊、本部、第一、第二、第四各中隊は祝田町警備出張所の前の砂利敷路面が十字に交差するところで馬場先門の方角に向い横隊形に隊列を組み、第六方面予備隊も同様に馬場先門に向い、第一方面予備隊の隊列線に横隊形で整列した。銀杏台上の島から転進してきた第七方面予備隊は、第一、第六各方面予備隊と合流し、そこで第一、第六各方面予備隊の隊列につづいて、桜田門から祝田橋に至る濠端の土手に向つて三列の横隊形に、第三中隊、本部、第二中隊、第一中隊の順序に隊形を組んだ。

(三) 一方、国会警備の任務についていた第一方面予備隊第三中隊は、前示警戒総本部の指示を受けた倉井第一方面本部長から「至急皇居前広場に移動のうえ第一方面予備隊長の指揮下に入れ」との命令を受け、国会から徒歩で転進し、桜田門より広場へ入つた。第三中隊長井上公耳は、銀杏上の島芝生中央附近まで同中隊を前進させたところで第一方面予備隊桜井副隊長に出会い、同副隊長から、第三中隊は、第七方面予備隊米川副隊長の指揮を受けて警備に当れ、との指示を受けたので、祝田町警備出張所附近へ中隊を率い、第七方面予備隊の隊列に加わり、第七方面予備隊第三中隊の右に、横隊形で桜田門に通ずる土手に向つて隊形を組んだ。このようにして、午後三時過ぎには、第一、第六、第七の各方面予備隊からなる警察官部隊は、祝田町警備出張所前に、鍵型の隊形を組みおえた。

2  祝田町警備出張所前の衝突

(一) その間、祝田橋から中央自動車道路にそつて皇居前広場に入つた集団は、さらに増え、中央自動車道路から銀杏台上の島一帯に広がり、さらに録杏台上の島から砂利敷路面上に広がつた。また、一部は、中央自動車道路から馬場先通を越え、銀杏台芝生上に至り、さらに銀杏台と御森林島との間の砂利敷路面上にも広がつた。こうして広場内に入つた集団は、前示隊形を組んだ警察官部隊に少しづつ近づき、銀杏台上の島と桜田濠との間の砂利敷路面に出た集団は、前示土手に向つて横隊形となつている警察官部隊に、二、三〇メートルの距離まで接近した。これらの集団は、手に手にプラカード、あるいは旗竿、棒などをもち、口々に警察官部隊に向けて罵声をあげ、あるいは太鼓を打ち鳴らして気勢をあげ、ところどころで盛んに投石がなされた。これらの群衆が、「わあつ」と喚声をあげたとき、第七方面予備隊米川副隊長は、「進め」と号令をかけ、自ら先頭になつて前進し、これに同予備隊本部員四〇名があとにつづき、三角形の隊形をなして突き進んだ。さらに同予備隊第三中隊長渡辺政雄も米川副隊長の命令ととも駆足で前進し、井上第一方面予備隊第三中隊長は、警棒を上げて中隊員に「突つこめ。」と大声で号令をかけ、一団となつて前進した。

馬場先門に向つて横隊形をとつていた第一方面予備隊も加藤隊長の「進め」の号令で一斉に前進して前面のメーデー行進参加者の集団と衝突し、第六方面予備隊も同様に群衆の制圧行動に移つた。

(二) このため、警察官部隊とメーデー行進参加者の集団とは乱闘状態になり、警察官は警棒を振りあげ、群衆は棒、竹竿等で反撃し、混乱のまま警察官部隊が前記集団を銀杏台上の島方面に押し上げていつた。第七方面予備隊は、乱闘しながら銀杏台上の島芝生にあがつた。このころ、群衆に対し、催涙ガス筒が投じられ、所々に催涙ガスの白煙が上つた。また一部では拳銃が発射された。米川副隊長は、部隊が一度砂利敷路面に押しもどされたので、部隊を再度集結させていたところ、局面が変化し、催涙ガス筒が使用され、拳銃の発射音が起り、銀杏台上の島芝生上の群衆が祝田橋方面に潰走する状態となつたので、「この機会だから押せ。」と号令をかけ、再び芝生上に前進し、一進一退をくりかしつつ、群衆を排除して祝田橋に近い銀杏台上の島の東南角まで前進した。第七方面予備隊第三中隊は砂利敷路面上に集結した後、同路面の西側の濠端にそつた柳並木ぞいに前進し、迂回をして祝田橋へ前進したが、やや本隊と離れて前進したため、祝田橋上で群衆の反撃を受け、青木第三中隊第二小隊員らが群衆から暴行を受けた。第一予備隊第三中隊は、催涙ガスを避けながら、群衆を排除し、桜田濠にそいつつ、桜田門に至る舗装道路を迂回して祝田橋のたもとまで前進したが、同所で群衆が反撃し相当数の中隊員が祝田橋上に孤立した。井上中隊長は、これを救援すべく、さらに制圧行動をつづけた。第一方面予備隊も集団と衝突し、殴り合いの状態で一進一退し、逐次群衆を排除して、銀杏台上の島中央自動車道路前まで前進した。

(三) 一方、第三方面予備隊本部に自隊待機していた同予備隊第二、第三中隊は、午後三時前、前進命令を受け小川登同予備隊副隊長が右部隊を率い、桜田門から皇居前広場に入り、舗装道路にそつて祝田橋方面に前進した。そうして、祝田橋から桜田門に至る土手の上から激しく警察官に投石する群衆を排除し、その後銀杏台上の島祝田橋寄の角のところに部隊を集結した。

このようにして、警察官部隊は、午後三時四、五〇分頃までには、祝田町警備出張所附近、砂利路面、銀杏台上の島芝生から群衆を全面的に排除し、銀杏台上の島の中央自動車道路の線に各部隊が集結した。

3  楠公銅像島からの群衆の排除

(一) 警察官部隊によつて排除を受けて後退した群衆は楠公銅像島芝生上にあつまり、同芝生の上から祝田橋に至るまで中央自動車道路を隔てて前示警察官部隊と対峙して広がつていた。桜井第一方面予備隊副隊長、米川第七方面予備隊副隊長、小川第三方面予備隊副隊長は、この楠公銅像島上の群衆の排除について打合せを行い、中央自動車道路から横隊形で銅像島に向けて前進することとし、左翼に第一方面予備隊、中央に第七方面予備隊、右翼に第三方面予備隊がそれぞれ位置して押すことに意見の一致を見た。これに基づいて、第三方面予備隊は祝田橋寄のところに中央自動車道路にそつて縦隊形に第二中隊が右、第三中隊が左に隊列を整え、その左に、第七方面予備隊が、第三中隊、第二中隊、本部員、第一中隊の順に横隊形で位置し、さらにその左に第一方面予備隊が同様に横隊形で配置についた。

(二) 午後四時頃、加藤第一方面予備隊長、米川第七方面予備隊副隊長、小川第三方面予備隊副隊長は相呼応して「進め」の号令をかけ、これを合図に各部隊は声をあげて駆足で前進した。

第一方面予備隊は、楠公銅像島芝生に向い真直ぐに横隊形で前進し、同芝生上の集団を制圧した。群衆は後退しながら、警官隊に投石等をしつつ、東端の土手から馬場先門の方へ逃げていつたため、警官隊はこれと直接衝突することはなかつた。第一方面予備隊は土手のすぐ下まで前進したのち左に方向を変え馬場先門へ群衆を排除した。

(三) 第七方面予備隊は、楠公銅像島に上り、群衆と乱闘を繰りかえしながら群衆を押し南側の土手に前進した。第七方面予備隊第三中隊は、中央自動車道路をわたつたところで、南側土手の方向に隊の向きを換え、群衆を祝田橋および馬場先門へ排除するように前進したが前方の土手、道路にいる群衆から石や棒を投げつけられ、抵抗を受けた。これを制圧するため第三中隊長渡辺政雄は、部下に拳銃を出せと命令し、中隊は拳銃を構えて、祝田橋から東に土手にそつて通つている舗装道路を渡つて前進した。第三中隊が拳銃をかまえて制圧したため、群衆の暴行は少くなり、渡辺中隊長は、この段階で「銃を納め」と命令し、その後銀杏台上の島方面へ後退した。第七方面予備隊の本隊は、舗装道路を土手に向い前進したが、そのとき米川副隊長は、右方に石原第二中隊第一小隊長が、群衆に囲まれて、拳銃を発射しているのを発見し、その方向の土手に向い部隊を前進させた。その後同予備隊は、ほとんど抵抗を受けることもなく、群衆を馬場先門の方へ押して排除した。

(四) 第三方面予備隊は、駆足で縦隊形のまま前進し、舗装道路を斜めに横断して群衆を分断して集団の中に入り、左右から投石、棒等で抵抗する者を警棒で追い払い、部隊を固めて楠公銅像島東南角の厚生省国立公園部の建物近くまで前進したところ、小川副隊長は、拳銃の発射音二発を聞いた。すると同予備隊の隊員は、こもごも小川副隊長に「拳銃を撃たしてくれ。」と叫んだが、同副隊長は、とつさに「警棒で追い払え。」と応えて、前進した。そのころ、同予備隊の周囲にいた群衆も、拳銃音を聞くとまもなく、逃げはじめたので、小川副隊長は、「捉えろ」との命令を出した。

(五) 一方、第四方面予備隊も、出動命令を受けて、この頃、桜田門から皇居前広場に入り、濠端の土手の上にいた群衆の排除活動を行い、倉井第一方面本部長も第四方面予備隊とともに皇居前広場に入り、現地に第一方面本部を設置して、全部隊の指揮、掌握を行つた。

このようにして、警察官部隊は、午後五時過ぎにはほぼ全面的に、皇居前広場から群衆を排除しおえた。

第三警察官の拳銃使用状況

一、補助参加人らの刑事事件公判廷における証言

第一、4、6、の争いのない事実、<証拠>によれば、東京地方裁判所刑事第一一部における岡本光雄外二百数十名に対する騒擾助勢等被告事件(いわゆるメーデー騒擾事件。以下、刑事事件という。)の公判審理中、いわゆる総論部分立証の最終段階において、前示四、2、3の警察官の警備活動に際し拳銃を発射したことが明らかな補助参加人ら一六名の警察官が証人として公判廷に喚問され、それぞれ、次のとおり拳銃の発射状況について証言をなしたことが認められる。

1  北爪量平

北爪量平は、刑事事件第五一三回公判期日において、「北爪は、第一方面予備隊特別班第二分隊に所属して皇居前広場に出動したが、祝田町警備出張所前における衝突に際し、同所から祝田橋に近い、桜田門へ通ずる舗装道路上まで前進したときに、一二、三メートル離れた中央自動車道路上で一人の警察官が、数人の群衆にとりかこまれているのを発見し、やられているなと思い、拳銃をとり出して「やめろ」と怒鳴り、群衆に拳銃を向け、銃口を上空に向けて一発撃ち、なお群衆がひるまないのでさらに一発撃つた。するととりかこまれていた警察官は、ふらふらと北爪の方へ近づいてきたので、北爪はそのまま群衆に銃口を構えていた。その後、さらに中央自動車道路の桜田門よりの石垣の下で一警官が数名の群衆に追われて逃げてくる途中、つまづいて転倒したとき、追つてきた群衆がこれを殴りつけるようになつたので、つづけざまに二発、拳銃を日比谷公園の方角、大体斜め上空に向けて発射した。その後、桜田門に通ずる舗装道路を中程まで後退し、濠におちた警官を救出するため、五、六名の警官とともに濠に向おうとすると、群衆が前方に立ちふさがるように向つてきたので、あぶないと思い、祝田橋交差点ないしは日比谷公園の方角に、銃口を斜め上空に向けて一発発射した。すると、群衆がひるんだが、北爪のまわりに居た誰かが「危いから逃げろ」という声をかけたので、孤立状態になるのを免れるため、全員駆け足で桜田門寄りに逃げはじめた。逃げる途中、警察官の一人が植込のところで転倒したが、その後から群衆が一〇メートル位離れて追いすがつてきたため、北爪はふりむきさま、銃口の方角を確認しないで上方に一発、拳銃を発射した。」以上の趣旨の証言をなした。

2  御園久信

御園久信は、刑事事件第五一一回公判期日において、「御園は、第一方面予備隊第三中隊特別班記録係に所属していたが、祝田町警備出張所前における衝突に際し、井上隊長の命令で同所から前進するとき記録係として、前進命令の時刻等を記録していたため、前進するのがおくれ、銀杏台上の島芝生上で中隊の位置を確かめようと立ち止つていると、群集にとりかこまれて、竹竿で二、三回手の甲を殴られ、「やつてしまえ」などと罵声をかけられた。そこで、御園は、身体の危険を感ずるとともに、拳銃を奪取されるのを防ぐ目的で、群集を威嚇するため携行した拳銃を発射すべく、結えていた細紐を切つて拳銃をとり出し、斜め上空に拳銃を構え、『やめろ。』と叫んで一発撃ち、そのまま向きをかえて前面の群集にぶつかりながら、駆足で、前方でもみ合つている警察官の方へ立ち去つた。」以上の趣旨の証言をなした。

3  飯島清次

飯島清次は、刑事事件公判期日において、「飯島は、第一方面予備隊第三中隊特別班に所属しいいたが、祝田町警備出張所前から群衆を排除して前進し、その後銀杏台上の島芝生上に中央自動車道路添いに群衆と対峙した。その時飯島は、群衆を排除する際に拳銃を使用しなければならないことも予想し、拳銃を革帯に結びつけていた細紐を解いて準備をしていた。飯島は、その後楠公銅像島に前進し、警棒を構えて祝田口から馬場先門に通ずる舗装道路まで群衆を排除して進んだところ、祝田橋にちかい濠端の土手下附近で一旦後退した群衆がプラカードの柄をもつて反撃してきたので、飯島は中央自動車道路の方へ、後ろをふり返りながら後退した。しかしながら、飯島が中央自動車道路の銀杏台上の島寄の歩道に接近した車道のところまで逃げてきたとき、銀杏台上の島の方向には特に群衆というほどの集団規模ではなかつたけれども三〇名位の人影がばらばらになつて飯島の後を追い、中央自動車道路に入つてきたので、飯島は、後を振り向いて拳銃をとり出し、群衆へ向つてやや斜め上方に一発拳銃を発射したが、相手はこれにひるむ様子もなかつたので、つづけて拳銃を連射した。このとき、飯島は、一発ごとに群衆の反応を確かめたりすることもなく、発射数すら確認できなかつた。後に拳銃を点検した際に、飯島は、この時に五発発射していることが判明した。飯島の拳銃連射により、群衆は、祝田橋土手下の公衆便所の附近に逃げ散つた。」以上の趣旨の証言をなした。

4  森一雄

森一雄は、刑事事件第五一二回公判期日において、「森は、第一方面予備隊第四中隊特別班指揮係に所属していたが、当時は同予備隊本部編成に加わり、皇居前広場に出動し、祝田町警備出張所前における衝突に際して同所で群衆と対峙した。森は、前進命令とともに一五、六名の警官と一緒になつて桜田濠沿いに前進したが、群衆と衝突し、一五、六名の警官隊は三つに分断されて群衆に包囲された。群衆は、手に手に竹や棒をもち、大声をあげて警察官の方に押しよせ、森は群衆に右ひじを棒で殴打された。しかし後が濠で逃げられないので、森は囲みを脱するため、第一生命ホールの方角の斜め上空に二発拳銃を撃つた。この銃声により、群衆は、一斉に後退した。その後、森は、二、三名の警官とともに中央自動車道路の祝田口から桜田門に通ずる舗装道路の境のところまで進出したところ、群衆が祝田橋および中央自動車道路以東の楠公銅像島に集まつて、警官に投石や棒を投げる等気勢を上げていたため、森は、群衆がすべて自分の方に押しよせて来るような感じにとらわれ、恐くなつて、群衆の方角へ斜め上空を向けて、残つている弾丸四発を全て発射した。森は、拳銃を撃つてからすぐに、中央自動車道路の左方にいた大勢の警察官のところへ合流した。」以上の趣旨の証言をなした。

5  斉藤林

斉藤林は、刑事事件第五一六回公判期日において、「斉藤は、第七方面予備隊本部特別班に所属して、祝田町警備出張所前における衝突に際し、同所から米川副隊長とともに三角形の隊形で群衆の中に突つ込んだが、群衆は棒や竹ではげしく抵抗し、一方、警官も警棒を振りまわして乱闘状態となつた。このとき、斉藤は、左の方から左腰部を殴られ、さらに右から棒で右大腿部を強打されて転倒し、頭がぼおつとした。この危機から脱出するためには拳銃を使用するほかはないと判断し、斉藤は起きあかりながら拳銃をとり出し、前および左右にいる群衆の足および足もとの地面を狙い、うしろにさがりながら連続して拳銃を発射し、六発の弾丸を撃ち尽した。斉藤は拳銃を発射するに際に群衆に警告を発することなく、また、一発撃つ毎に状況をたしかめることもしなかつた。この間群衆は一時ひるんだため、斉藤は、拳銃に三発の弾丸をさらに装填した。すると間もなく、再び群衆が角棒等を振りかざしてきたので、この群衆の下方を向けて拳銃を三発連射した。」以上の趣旨の証言をなした。

6  石原常治

石原常治は、刑事事件第五二三回公判期日において、「石原は、第七方面予備隊第二中隊に所属して、祝田町警備出張所前における衝突に際し同所から前進したが、すぐ群衆と衝突し、乱闘となつた。その際、石原は、群衆に角材で頭を殴ぐられて転倒したところ、さらに周囲の群衆から棒で突かれたり、足で蹴られたため、ころがつたまま、拳銃を抜いて、方角もさだめずに、周囲に三発位連射した。すると周囲の群衆は遠ざかつたので、石原は、再び起きあがり、自己の部隊まで逃げた。その後石原は、楠公銅像島における排除活動に際し、部隊とともに中央自動車道路から楠公銅像島に前進し、部隊の先頭に立つて群衆とわたり合いながら濠端の土手まで一気に駆けて群衆が固まつているところに突当つたところ、周囲から抵抗を受け、棒や竿で殴りかかつてきたため、すぐ拳銃を抜き出して上方を向けて二発位連射した。石原は、二度の拳銃使用の際には、それぞれ何発の弾丸を発射したか確認していないが、後に拳銃を点検した際に、合計五発の弾丸を発射していたことが判明した。」以上の趣旨の証言をなした。

7  成井九次

成井九次は、刑事事件第五二〇回公判期日において、「成井は、第七方面予備隊第二中隊に所属し、祝田町警備出張所から前進して群衆と衝突した。その際に成井は警官隊の最前列にあつて進んだ。しかしながら、成井は、群衆の気勢に押されてこれはかなわないと思い、群衆との接触をさけるため右端に寄ろうとしていたとき、佐々木巡査が群衆に囲まれているのを見つけ、そちらに近づこうとしたところ、小石が砂とまじつて投げつけられた。成井はこたを防ぐため鉄兜を深くかぶつていると、鉄兜の上から二、三回続けて衝撃を受けたのでこれを警棒で払つていたが、そのうち無意識に拳銃を引き抜いて連射した。その際、成井は、どうい姿勢で、どの方向に拳銃を発射したかも判らず、又周囲の群衆の状況等を確認しないまま、装填されてあつた六発の弾丸全部を撃ちつくした。成井が拳銃発射后に周囲をみると、附近には群衆が既にいなかつた。」以上の趣旨の証言をなした。

8  佐々木七郎

佐々木七郎は、刑事事件第五二六回公判期日において、「佐々木は、第七方面予備隊第二中隊に所属し、祝田町警備出張所前から前進して群衆と衝突した際にまきこまれてしまつた。その時佐々木は左顔面に投石によるらしい衝撃を受け、左目が見えなくなつたためこれを左手でおさえて群衆が棒等で殴りかかつてくるのを右手の警棒で防いでいたが、いくら防いでも殴りかかられるので、瞬間的に拳銃をとり出して『撃つぞ。』と叫び、前かがみのまま、拳銃を一発撃つた。しかし、それでも群衆は殴りかかるので、佐々木は、二発目を撃つよりは逃げた方がいいと判断し、背后の群衆をかきわけて銀杏台上の島の方向へ脱出した。」以上の趣旨の証言をなした。

9  中村政栄

中村政栄は、刑事事件第五二二回公判期日において、「中村は、第七方面予備隊第二中隊に所属して皇居前広場に出動したが、祝田町警備出張所前において群衆と衝突し、群衆が中村をとりかこんで棒等で殴りかかつたきたため、乱闘となつた。その際、中村は日比谷公園の方角に斜め下向に銃口を向けて拳銃を二発連射した。そのときの中村と群衆との距離は四、五メートルあつた。発射后も群衆はひるんだ様子もなかつたので、中村は、群衆をかきわけてその場をのがれ、その後さらに群衆を解散させるべく、警棒でもつて群衆をおして前進した。」以上の趣旨の証言をなした。

10  吉田弘明

吉田弘明は、刑事事件第五二七回ならびに第五三三回公判期日において、「吉田は、第七方面予備隊第三中隊に属して皇居前広場に出動したものであるが祝田町警備出張所前における群衆との衝突後、同所から銀杏台上の島芝生上に前進し、さらに同芝生東南の角から群衆を排除して祝田橋方面に進んだとき、祝田橋附近の自動車道路上で青木巡査が群衆に暴行を受けているのを発見した。吉田は、これを救出すべく、祝田橋に近い土手下の芝生まで進んだところ、群衆から棒や竹で反撃を受けたため、群衆に対し警棒を振りまわし、乱闘状態のまま群衆を排除して土手寄の方面に突つこんで行つた。すると、群衆が土手の上からカーバイトらしきものを吉田の足もとに投げつけてきたため、吉田は、土手からの攻撃を防ぐため祝田橋歩道上に逃げた。しかしながら、吉田は、同所でも群衆から抵抗を受けたので、拳銃を抜き出し、これを構えて『くると撃つぞ』と言つて威嚇した。すると、背后から、「よせ、よせ。」と拳銃を擬したことを制止する声がかかり、吉田はどうしようかとちゆうよしたが、群衆が再び殴りかかつてくるので、そのまま二発位群衆が大勢いる日比谷公園の方角に下を向けて拳銃を発射した。その後吉田は、さらに群衆を広場から排除すべく、日比谷公園の方角に何歩か進んだところ、前后から群衆に殴りかけられたので、右手に所持していた拳銃を群衆に向け、銃口を相手の体の真中あたりに位置して、連射した。これにより、群衆は、日比谷公園の方に逃げた。吉田は、その後、部隊とともに中央自動車道路で群衆と対峙した際に、拳銃を点検して皮帯に納めたが、このときに、装填してあつた弾丸を全部撃ちつくして合計六発撃つていることを確認した。」以上の趣旨の証言をなした。

11  岩淵信雄

岩淵信雄は、刑事事件第五一五回ならびに第五二一回公判期日において、「岩淵は、第七方面予備隊第三中隊に属して皇居前広場に出動したのであるが、同部隊は、午後四時ごろ、中央自動車道路にそつて横隊形で群衆と対峙した。岩淵は、前進命令とともに中央自動車道路をわたり楠公銅像島芝生に前進し、同芝生の祝田橋にちかい西南角にきたところ、右後方の中央自動車道路上で、カメラを所持している外国人が群衆に囲まれて投石を受けているのを発見した。そこで岩淵は、まわりには同僚の警察官もいたけれども一人でこの外人を救出しようと考えてこれに近づき、六、七メートル距てた群衆に向けて『投げるな、拳銃を発射するぞ。』と警告した後、警視庁の方角に向けて上方に一発拳銃を発射した。そうすると群衆は後退し、その間に外国人は見えなくなつたので、岩淵は、同僚の居る部隊に戻つた。」以上の趣旨の証言をなした。

12  大西鉞生

大西鉞生は、刑事事件第五一八回公判期日において、「大西は、第七方面予備隊第三中隊に所属して皇居前広場に出動したものであるが、同部隊は午後四時ごろ中央自動車道路にそつて群衆と対峙したのち、楠公銅像島に前進した。そして同部隊は、楠公銅像島上で右に方向を換えて祝田橋寄の土手に向い一隊となつていたところ、祝田口から馬場先門に通ずる舗装道路から土手にかけて群衆が棒などをもち、投石をしたりしていた。そのとき、警察官部隊の側から、一、二人前へ出るとともに群衆も前進してきたので、大西は、群衆とは十数メートル離れはいたが、群衆が再び警官隊におそいかかり乱闘になつたら大変であると思い、いまだ群衆が直接警官隊に襲いかかつてきたわけではなかつたけれども、警官隊に近づかせないようにと、右足を前に出し、ひざを折つた姿勢で、右手を水平にのばし、銃口を群衆に向けて水平よりやや下向に、一発拳銃を発射した。このため群衆は幾分ひるんだので、大西は、部隊とともに前方の土手に向つて群衆を排除するために前進した。」以上の趣旨の証言をなした。

13  鈴木修

鈴木修は、刑事事件第五一一回ならびに第五三〇回公判期日において、「鈴木は、第七方面予備隊第三中隊に所属して皇居前広場に出動した。同部隊は、祝田町警備出張所の前で群衆と対峙した後、群衆と衝突し、これを中央自動車道路方面に押して進んだ。しかし、このとき鈴木は、所属の部隊から離れて孤立し、銀杏台上の島を群衆を避けながら逃げていたところ、たまたま加藤第一方面予備隊長と出会つた。そのとき、右前方にかけて群になつていた集団が、石を投げたり、棒をふりあげたりして進んできたので、加藤第一方面予備隊長は『撃て、撃て。』と叫び、鈴木は拳銃を取り出して群衆の方を向けて連射した。その際、鈴木は、拳銃の発射数を確認しなかつたが、銃口は、下を向いていたものと思う。鈴木は、後に拳銃を点検した際に、五発撃つたことを確認した。」以上の趣旨の証言をなした。

14  岩屋満

岩屋満は、刑事事件第五一四回公判期日において、「岩屋は、第七方面予備隊第三中隊に所属して皇居前広場に出動し、祝田町警備出張所前で群衆と対峙した。岩屋は部隊とともに群衆を排除して銀杏台上の島東南角まで前進したが、そのとき、群衆は勢を盛りかえして反撃してきたので、岩屋とともに進んできた数名の警官は、再び二重橋の方角に引き返して逃げはじめた。しかしながら岩屋は逃げる途中同僚から離れたため、銀杏台上の島芝生上を走りながら三分の二程進んだところで拳銃をとりだし、十数メートル離れて岩屋を追つてきた群衆に対し、振り向いて、拳銃を向け、群衆に向つて一発発砲した。岩屋は、拳銃を発射してすぐ二重橋方面の警察官が集まつているところに合流したが、群衆はその後を追つてはこなかつた。また、岩屋が逃げていく方向には、特に群衆がいたわけでもなかつた。」以上の趣旨の証言をなした。

15  望月文治

望月文治は、刑事事件第五一九回公判期日において、「望月は、丸の内警察署々員であり、当日は、丸の内署の通常勤務として皇居前広場内馬場先門巡査派出所に派遣された。望月は馬場先門巡査派出所入口で広場の状況を眺めていたところ、楠公銅像島から五〇〇人位の群衆が同派出所の方に進んできたので、馬場先門を警備していた渡辺部隊がこれを押さえるため駆足で前進していた。そのとき、二重橋方面、あるいは銀杏台上の島、銀杏台の芝生の方面から、さらに群衆が同派出所の方に進んできたため、望月は派出所の中に入り、西側のガラス窓越に群衆を見て、坂下門の方角の群衆の方向のやや上向に拳銃を一発発射した。しかし群衆は依然として派出所の方に進んでくるので、望月は、再び派出所の入口に出て、入口の右角のところから坂下門の群衆に向けて、やや上方に拳銃を一発撃つた。すると今度は、群衆は『拳銃があるぞ。』といいながら楠公銅像島の方に逃げ去つた。」以上の趣旨の証言をなした。

16  赤崎年雄

赤崎年雄は刑事事件第五二九回公判期日において、「赤崎年雄は、望月と同様に丸の内警察署員として馬場先門巡査派出所に通常勤務をなしていたが、銀杏台上の島芝生上で警察官が群衆を制圧していたところ、同派出所から七、八メートル西にある松の樹に登り、広場の状況を眺めていた。ところが、警察官部隊に追われた群衆は、銀杏台上の島から楠公銅像島方面へ移動していたが、その一部が楠公銅像島から馬場先門を越えて交番島に移動してきた。この群衆は、馬場先門巡査派出所を見つけると『交番があるぞ、やつつけろ』等と言い、投石などで同派出所のガラス窓を割ろうとした。赤崎は、群衆が自分の登つている松の木の方に近づいてくるのをおそれて、十メートル位離れていた群衆に対して威かくするため、二重橋の方角の上方に拳銃を二発発射した。群衆は、この拳銃の音におどろいてひるんだため赤崎は、松の樹からとび降りて、同派出所の中に入つた。群衆はその後千代田グランドの方面に移動したが、再びそちらの方から三、四〇人の群衆が同派出所の方に向つてきたので、赤崎は、同派出所から身をかがめて前進し、松の樹の陰に身を隠しながら、群衆の方向にやや上方を向けて拳銃を二発撃つた。赤崎は、このようにして群衆を散らした後同派出所に戻つた。」以上の趣旨の証言をなした。

二、補助参加人らの証言に対する当裁判所の評価

1  補助参加人ら一六名の警察官が、前示第二、四の警備活動の際に、拳銃を使用したことにおいては当事者間に争いのないところである。

しかしながら、原告らは、補助参加人らの拳銃発射の状況に関する被告ならびに補助参加人らの主張を争い、かつ、補助参加人らの刑事事件公判廷における前示各証言の信用性について、その供述内容自体合理性を欠くうえ、第七方面予備隊第三中隊長渡辺政雄が同中隊の吉田弘明巡査部長と共謀して同中隊員岩淵信雄、同大西鉞生、同鈴木修、同岩屋満に虚偽の内容の拳銃使用報告書を作成、提出させ、公判廷において偽証をなした経緯もあるので、疑わしいものであると主張する。そこで、補助参加人らの証言の信用性について検討する。

2  <証拠>によれば、五月一日夜、第七方面予備隊々舎に帰隊した渡辺政雄第三中隊長は、幹部室において同中隊第一小隊第一分隊長吉田弘明巡査部長から、同分隊員が午後四時過ぎに祝田口に近い楠公銅像島芝上において拳銃を発射したという報告を受けた。渡辺政雄は、右報告を受けてあの場合には必ずしも拳銃を発射する必要がない状況であつたので、同分隊員の拳銃使用は不当なのではないかと思い、その責任の所在を考えて困惑し、「困つた、困つた」と言つた。すると吉田弘明巡査部長は、渡辺中隊長に対し、自分が祝田橋附近で青木巡査を救出する際に拳銃を使用した状況は拳銃を使用するのにふさわしい状況であるので、自分の使用状況に合せて拳銃使用報告書を作成させたらどうかと申し出、渡辺中隊長は「そうしておけ。」と命じたこと、吉田弘明巡査部長は、当日拳銃を発射した分隊員岩淵信雄、大西鉞生、鈴木修、岩屋満の四名の警察官を集め、自分の青木巡査を救出する際に拳銃を使用した状況を記載した書面を示し、「この方が状況がよいようだからどうだ。」と言つて虚偽の拳銃使用報告書を作成するよう誘導したこと、前記四名の警察官は、右示唆を受けて事の重大さに思いを致さず、虚偽の拳銃使用報告書を作成し、提出したこと、しかも渡辺政雄は、昭和三二年七月一六日刑事事件の第三三五回公判期日、および同年八月三〇日の第三四一回公判期日において、それぞれ、部下の五人の警察官が拳銃を発射したのは、祝田町警備出張所前から米川副隊長の命令で前進した後に祝田口附近で発射したものである旨報告を受けたと虚偽の証言をなしたこと、右の事態に対し、東京地方検察庁は、渡辺政雄について偽証罪の疑いで捜査を行つたが、これを起訴猶予処分に付したこと、以上の各事実が認められる。

3  渡辺政雄ほか五名の警察官の右の行為は職務上の報告義務に背き、あるいは証人の真実義務に故意に反してまで、警察官としての拳銃使用の違法ないし不当性に対する非難を免れようとする意図に出たものであることは明白である。このような作為が公正を保つべき警察官として決して許されるものでないことは言うまでもないところであるが、加えて偽証罪の訴追で猶予されたことは、後の警察官証人の刑事公判廷における証言の真実性ないし証明力についても微妙な影響を及ぼす危険が無いとは考えられず、真実発見の困難性が増加したと考えざるをえない。

右のような虚偽報告書の作成ならびに偽証という拳銃使用に対する非難を回避しようとする警察官の作為の露見および刑事公判廷における警察官である補助参加人らの証言のうち、前示一の各供述は、いずれも自己の拳銃使用の適、否に関する事項であり、場合によつては自分の刑事上、民事上の責任の有無にもつながる内容のものであるところから、むしろ当事者本人の立場における供述にも擬すべきものであることは、本件訴訟において右供述の信用度を判断するに当つてとくに考慮しなければならないところである。そして、具体的に見ても、補助参加人らの殆んどが、銃口を上方あるいは下方に向けて発射したと述べ、人体を直撃する可能性を否定するにも拘らず、後記第四、二に認定するとおり、拳銃による被弾者は二〇名に達している事実があり、その一部には跳弾による被害が含まれているとしても、補助参加人らの拳銃の発射方向に関する供述内容をもつてしては右被害の事実をとうてい解き明かすことができないという不合理がある。また<証拠>によれば、警察官の拳銃を構えた姿勢の中には、明らかに銃口を保つているものであつたことが認められる。これらの事情および被告の認める発射弾数が合計六一発にすぎないのに、被弾者は右のとおり二〇名に達している事実を考慮すれば、補助参加人らの前掲各証言については、拳銃の発射数(これについては拳銃ならびに弾薬の管理体制も考慮して)および使用の時期、場所が前示第二の四の警察官部隊による警備活動であるという大まかな点では信用できるけれども、各補助参加人の拳銃使用を必要かつ正当ならしめる具体的な緊迫した事情の存在ならびに銃口の方向、角度などの微細な事実については、補助参加人らが自ら不利な供述をなしている部分の外は、他に特段の証拠がないかぎり、直ちに信用するには十分でないと認められるところ、本件においては右補助参加人らの拳銃使用の個別的具体的状況を明らかにし、補助参加人らの供述を補強する証拠は他にない。したがつて、前掲補助参加人らの証言は右に判断した限度においてしか採用しえない。

第四警察官の拳銃発射による高橋正夫の被弾

一、高橋正夫の被弾状況

前示の争いのない事実と<証拠>を総合すると以下の事実が認められる。

1、高橋正夫は、メーデー行進に参加して午後二時頃日比谷公園で解散し、一旦東京都民生局保護課庁舎に帰つたが、その後東京都職員組合の組合員等とともに皇居前広場に入り、他のメーデー行進参加者とともに、銀杏台上の島芝生附近にあつまつていた。

2  日本共産党東京都委員長であつた鈴木勝男は、皇居前広場で中央メーデーの解散大会を開こうとして広場内の群衆に呼びかけていたところ、警察官部隊による排除を受け、銀杏台芝生上から、他のメーデー行進参加者とともに中央自動車道路を斜めにわたり、楠公銅像島方面に逃げた。鈴木勝男は、楠公銅像島を東南の角にある土手に向つて走りながら逃げる途中、数メートル前方を同方向に逃げていた男(後に高橋正夫と判明)が突然のめるように前に倒れるのを見た。

このとき、周囲の群衆も高橋、鈴木らと同様に潰走していたが、その後方から警察官が一隊となつて追撃してきた。鈴木勝男は、高橋正夫にかけ寄つて抱き起すと、その胸部からおびただしい出血があり、高橋はほとんど意識の無い状態にあつた。その間、後ろから群衆を追つてきた警察官らは、この二人を乗り越えるようにして、さらに前方の潰走する群衆を追つて前進していつた。

鈴木は、高橋を背負つて厚生省国立公園部の建物のかげまで運んで寝かせ、メーデー行進救護班に看護を依頼した。救護班は、ただちに佐藤猛夫医師をして手当に当らせたほか、高橋の負傷状態を写真に撮つた、しかしながら、高橋正夫は、まもなく死亡し、高橋正夫の遺体は、やがてメーデー行進参加者達により、自動車に乗せられて、皇居前広場を出た。

3  解剖検査によれば、高橋正夫は、背面より心臓を通り、前胸部へ貫通する射創のため、失血死したものである。

二、その他の被弾者

<証拠>によれば、次の事実が認められる。

1  訴外益子正教は、メーデー行進に参加し、さらに日比谷公園から祝田橋を通り皇居前広場に入つた。その後、益子は、前示第二の四、6ないし7のとおり警察官部隊が祝田町警備出張所前に鍵型の隊形を組んだころ、銀杏台上の島西側の砂利敷路面上に停止していたが、とたんに催涙ガス等を投じて警官隊が排除してきたため、益子の周囲にいた群衆は逃げはじめた。益子も逃げ出したとたんに、両膝をほぼ水平に貫通する拳銃弾による銃創を受けた。

2  訴外宮原久代は、メーデー行進に参加し、日比谷公園から馬場先門を通つて皇居前広場に入つた。そのあと、宮原は、銀杏台上の島芝生上でしばらく時を過していると、拳銃の発射音がして前方の群衆が逃げてきたため、宮原も逃げようとしたところつまづいて転倒した。その際宮原は左大腿部を貫通する拳銃弾による銃創を受けた。

3  訴外池沢康郎は、前示のとおり警察官部隊が祝田町警備出張所前に鍵型の隊形を組んだ後、警察官部隊に押されて後退したが、そのとき、周囲の群衆とともに転倒したとたん、右下肢に拳銃弾を受け、盲貫銃創を負つた。

4  訴外後藤和俊は、たまたま散歩のため皇居前広場に入つていたが、前示第二の三のとおりに馬場先門より皇居前広場に入つた集団のあとについて歩いていくと、集団の先頭の部分が警察官部隊ともみあつていたが、集団は警察官に押されて後藤がいた附近まで後退し、後藤はその集団にまきこまれた。その後、銃声がきこえてきたので、後藤もうしろを向いて駈け出した。後藤は、この逃走中、右大腿部にほぼ水平に拳銃弾を受け、貫通銃創を負つた。

5  その他に、当日皇居前広場およびその周辺において、訴外森衍は左上膊部に貫通銃創を受け、訴外池田誠一は左臀部に盲貫銃創を受け、訴外岡野静は左大腿部から下腹部に至る貫通銃創を受け、訴外高永武は右手に銃創を受け、訴外山本義変は後頭部に銃創を受け、訴外藤巻正司は下腿部に貫通銃創を受け、訴外島崎元次郎は右側足関部に盲貫銃創を受け、訴外山田隆夫は左上膊部に貫通銃創を受け、訴外仲田真男は右大腿部に貫通銃創を受け、訴外桜井武矩は右大腿部に貫通銃創を受け、訴外木原啓允は右足甲部に貫通銃創を受けた。その外にも鈴木昭、川端弥太郎、城内ひさ子、福島資男の四名も拳銃により被弾し、皇居前広場における拳銃の被弾者は、高橋正夫を含め、メーデー行進参加者および広場に居合わせたもの合計二〇名に達した。一方、警察官の拳銃被弾者はなかつた。

三、因果関係の判断

1  前示一の高橋正夫の被弾状況によれば、高橋正夫は、他の群衆とともに警察官部隊の排除活動を受けて楠公銅像島芝生上を東南の方角に逃走中に背後から銃銃弾を受けて転倒し、追撃してきた警察官は高橋を乗り越えるようにして前進していつたことが明らかであるし、また前示二の事実によれば、本件証拠上その被弾状況を明らかにしえた訴外益子正教、同宮原久代、同池沢康郎、同後藤和俊も、いずれも警察官部隊による排除活動を受けて逃走する際に拳銃の射撃を受けている。

高橋正夫の被弾の時刻を明示できる証拠はないけれども、その被弾の場所および警察官の部隊行動から判断すれば、前示第二の四に認定した警察官部隊の警備活動のうち、銀杏台上の島芝生上から群衆を排除し、さらに楠公銅像島芝生上へ前進して行つた過程において被弾したものと推定するのが妥当である。そして、これらの時期における皇居前広場は、前示第二、四の2および3のとおり、警視庁の第一方面予備隊、第三方面予備隊、第六方面予備隊、第七方面予備隊等が同広場から群衆を排除するために実力行使に入り、警察官部隊と群衆との間に各所で衝突が起つていた。この間、補助参加人らは、それぞれ各部隊に所属し、この段階で拳銃を合計六一発発射している。この補助参加人らの拳銃使用の個別かつ具体的な状況は、前記第三、二、3に説示したとおり必ずしも明らかではないが、補助参加人らの刑事事件公判廷における証言によつてすら、飯島、斉藤、石原、成井、佐々木、吉田、大西、岩屋らのごとく、群衆の身体に弾丸が命中する可能性がある方向、角度で拳銃を使用していることが認められ、これら警察官が発射した六一発が、すべて人に危害を加えないように安全な方向に撃たれたとはとうてい考えられない。このことは、証人岡本光雄の証言により本件のメーデー当日の皇居前広場の模様を撮影した写真であることが認められる前出甲第三七号証によつても認められるところであり、現実に二〇名の被弾者があつたことは先に認定したところでもある。

これらの事実によれば、混乱した情況の中で高橋正夫が被弾した具体的な地点、時刻を今に至つて正確にとらえることは不可能であり、したがつて、証拠上はもとより、被弾の地点、角度、姿勢および時刻から高橋正夫を死に至らしめた直接の発砲者を推定することはできないけれどもこのことは、右現場附近で補助参加人らの発砲した六一発以外に他に拳銃を発射した者があつたと認むべき証拠のない本件では前示警察官部隊が銀杏台上の島および楠公銅像島芝生上の群衆を排除する警備活動を遂行した際に拳銃を発射した補助参加人らの拳銃弾のうち、いずれかが高橋正夫にあたり、失血死をもたらす背部から心臓を通り前胸部に至る貫通銃創を生んだものと認めるのが相当である。

これに反して、被告および補助参加人らは、当日拳銃を発射した補助参加人らの発射位置、発射方向等の射撃状況から見れば、補助参加人らが発射した拳銃弾が高橋正夫に命中するはずがないと主張するけれども、前示第三に説示したとおり、補助参加人らの拳銃使用状況に関する刑事事件公判廷の証言は、その微細な点まではにわかに信用できないのであるから、これをもつて前示の認定を動かす証拠とすることはできない。

2  さらに被告および補助参加人らは、メーデー当日皇居前広場に入つた群衆に警察官が所持していた拳銃四丁が奪取されていることから、これら群衆が拳銃を所持発砲し、高橋正夫に当つた可能性もあると主張するので、拳銃所持関係について検討すると、前示第二、二の認定事実のとおり、丸の内部隊および渡辺部隊は、与えられた警備任務の性格から全員、拳銃を携行することは認められなかつたが、第一方面予備隊においては警部以上の警察官および特別班員合計五三名が銃弾六発を装填した拳銃を携行し、第七方面予備隊は、全隊員が拳銃と一八発の弾丸を携行し、第三方面予備隊、第六方面予備隊も拳銃を携行して、皇居前広場における警備活動に出動した。一方<証拠>によれば、丸の内警察署員嶋倉藤一、通常勤務として祝田町警備出張において勤務に従事中、群衆に暴行を受けた際に拳銃一丁を紛失したが、この日、嶋倉は、拳銃に銃弾を装填しておらず、また予備弾も所持していなかつたこと、警視庁刑事部総務課に勤務していた山田栄治、山崎太郎吉の両名は、剴旋濠におちた警察官を救助するため祝田橋附近にきたとき、山田は群衆からとりかこまれて暴行をうけ、拳銃を奪われ、山崎も救助をしている際に群衆から暴行を受けて拳銃を失つたが、両名は、当日、いずれも刑事部総務課押送係の通常勤務に従事した服装、装備のまま救助にかけつけたものであつたので、拳銃には弾丸を装填しておらず、また予備弾も所持していなかつたこと、第七方面予備隊第三中隊の青木義彦は、前示第二の四、8のとおり、第七方面予備隊第三中隊の部隊行動に加わり、祝田橋上まで前進した時に、弾丸を装填した拳銃一丁を群衆に奪われていること、以上の事実が認められる。これによれば、嶋倉、山田、山崎の三名が失つた拳銃には弾丸がないのであるから、これをもつて群衆が発砲する可能性はない。また、青木が失つた拳銃をもつて群衆が発砲する可能性は全くないとは言えないが、前示第四、二の認定事実に明らかなごとく、警察官の拳銃被弾者は皆無であるのに、皇居前広場に入つた群衆には二〇名に達する被弾者がでているという事実に照らしても単に青木巡査が実弾を装填した拳銃を奪われたという事実のみから、警察官以外の者が拳銃を発射したということはたやすく認められない。

<証拠排斥―略>

第五拳銃使用の正当性の判断

一、一般基準

1  警察官は、その職務を遂行するにあたり、必要があれば適切な用具を使用しうるものであるが、武器すなわち人を殺傷する性能を目的として製作された器具の使用については、警察官職務執行法(昭和二三年七月一二日法律第一三六号、以下、警職法という。)第七条において、犯人の逮捕若しくは逃走の防止、自己若しくは他人に対する防護、公務執行に対する抵抗の抑止のため必要であると認める相当な理由のある場合にのみ許され、さらに警察官が武器の使用を許される場合でも、その事態に応じ合理的に必要とされる限度においてのみ使用できるものと定める。これは、武器の使用が国民の権利に対する重大な影響を伴うことに鑑み、これの使用に当つてはいわゆる警察比例の原則に服すべきことを明らかにしたものであつて、警察官が武器を使用する場合においても、警察官の職務執行の目的と武器使用によつて生ずる社会的不利益とは正当な比例を保つことが、その適法要件となる。このことは、警察官の、職務遂行の目的に適合した武器の選択および武器の使用態様の、いずれの場合にも考慮されなければならない。特に、警察官の武器使用により、人に危害を与える場合には、このことが厳格に要請されなければならないことは明らかであり、警職法第七条但書は、警察官が武器を使用しうる場合であつても、正当防衛(刑法第三六条)、緊急避難(刑法第三七条)および警職法第七条第一、二号に定める職務行為を行う場合以外には人に危害を与えてはならない旨明定する。そして、右の場合であつても、その目的のために、人の身体に危害を加えることと、さらに人の生命に危害を加えることとではその要件が異なり、警察官が、武器の使用により、人の生命に危害を加えることが許されるのは、逃走防止、防護、抵抗抑止の目的を達するために、前示の警職法第七条但書の要件を充たすほか、生命に危害を加えることが真にやむことを得ない場合でなければならないと解すべきである。この限界をこえた警察官の武器の使用は、いかなる場合でも、違法な行為である。

2  警察官が使用する武器のうちでも、特に拳銃は、暴発等の可能性をも含め、これが使用された場合の危害の重大性から、それ自体危険物ともいうべきものであるから、警察官の拳銃の使用ならびに取扱いについては特に厳格な注意義務が課せられる。このため、警視庁警察官拳銃使用及び取扱規程(昭和二五年一月六日訓令甲第一号)は、前示警職法の規定を受け、さらに、防護目的による拳銃使用は自己または他人をその生命または身体に対する重大な危害から防護する場合に限ること、騒じようの鎮圧等に際し、多数の警察官が一隊となつて行動する場合においては、個々の警察官の判断によらず、現場の最高指揮官の命令によることのできない場合を除き、必ずその命令によつてこれを使用すること、拳銃は威嚇のためには、示し、構えまたは使用しないこと、拳銃を使用するときは、冷静かつ慎重を期し、必要な限度を超えまたは民衆をいたずらに刺戟しないように注意すること、拳銃を使用しようとするときは、情況が急迫であつてその暇がないときを除き、あらかじめその使用することを警告すること、第三者に危害を及ぼしまたは損害を与えないよう常に充分注意すること、等の拳銃を使用する警察官が特に留意すべき事項を定めている。

したがつて、拳銃を所持する警察官は、前示1の適法要件を充す限度においてのみ拳銃を使用し、かつその場合も、前示2の各事項に従つて使用しなければならない注意義務がある。

3 ところで、右のとおり、警察官の武器、とくに拳銃の使用については、その使用の限界ならびに注意義務が明定されて、その使用、取扱について厳格な注意が要請されているのであるから、警察官が武器、とくに拳銃を使用して人に危害を加えた場合には、当該行為者側においてその拳銃の使用が適法な行為であること、あるいは前示の注意義務をいささかも怠らなかつたことを証明しないかぎり、警察官の当該拳銃の使用は、違法でありかつ過失があつたものと推定するのが相当である。

そこで、以下本件にける拳銃発射の正当性の存否につき判断する。

二、補助参加人らの過失

1  補助参加人らの拳銃使用状況については、前示第三の刑事事件の公判廷における補助参加人らの証言のほかにはこれを明らかにする証拠はない。そして、右補助参加人らの証言に対する当裁判所の評価は既に説示したところである。

しかしながら、ここで補助参加人らの拳銃使用の正当性(故意、過失の有無)について判断するに当つて、右補助参加人らの刑事事件の公判廷における証言によるとしても、後記3および4に考察するとおり、いまだ、補助参加人らが、警職法第七条但書に定める警察官の武器使用により人の生命に危害を加えることが許される事態にあつたと認めうるものではない。すなわち、警察官の武器使用により人の生命に危害を加えることが許されるのは、正当防衛、緊急避難あるいは警職法第七条第一、二号の職執行為に当る場合でも、生命に対する危害が真にやむをえない場合でなければならないところ、このような事態にあつたということは、補助参加人らの証言内容によつても認めえないからである。

2  したがつて、補助参加人らは、警職法第七条本文の要件を充すかぎり拳銃を使用しうるとしても、第三者はもとより直接の相手にも危害を加えることは許されない。この場合、補助参加人らが発射した拳銃弾が、たまたま流弾となり、あるいは地面ないしは他の物体に一度当つてはね返り飛来するいわゆる跳弾となつて、第三者に危害を加える可能性もありうる。しかしながら、前示一、2の警視庁警察官拳銃使用及び取扱規程にもその第五条において「第三者に危害を及ぼし、又は損害を与えないよう常に充分注意すること」を明示しているとおり、警察官の発射した拳銃弾が流弾あるいは跳弾として、第三者に危害、損害を加えることも警察比例原則を超えた武器の使用である。したがつて、警察官は、流弾、跳弾によつても不必要な危害を人に加えないように注意する義務がある。よつて、警察官が、このような流弾、跳弾により第三者に危害を加えることを予見し、あるいは回避することが全く不可能な特別の状況下にある場合は格別としても、かかる第三者の蒙つた危害、損害については少くとも過失による責任を免れることはできない。

3  そうすれば、仮に補助参加人らの刑事事件公判廷における証言によつて拳銃使用状況を検討するとしても、北爪量平、森一雄、斉藤森、石原常治、佐々木七郎の五名については、それぞれの状況により拳銃を発射することがやむをえない事態もあつたけれども、この場合にも直接の加害者を拳銃によつて危害を加えることは許されず、また第三者に危害を与えてはならなかつたというべきである。

すなわち、

(一)、北爪量平は、前記証言によれば、群衆にとりかこまれている一人の警察官を発見しこれを救出するため拳銃を二発発射したというのである。右の拳銃発射については、前示証言の状況によれば、警察官は相当な暴行を受けていたことも窺われ、これを救出するために拳銃を使用することが必要と判断したことには、相当の理由があつたというべきである。しかしながら、未だこのような状況においては、拳銃の使用は許されるとしても、防護の目的のために威嚇射撃を行う限度において使用することはともかく、人に危害を与えることが許される情況にあつたとは未だ認められない。

(二)、前記証言によれば、森一雄が最初に二発拳銃を発射したときは、部隊から分断され、竹や棒をもつた群衆に包囲されて、右ひじを棒で打たれるなど、暴行を受けたが、後方は濠であつたため逃れることができず。囲みを脱するために拳銃を使用したというものである。この場合、森が拳銃を使用したことは、自己の身体を防護するため必要であると判断したことには相当な理由があつたといえる。しかしながら、森が受けていた暴行の程度に鑑み、防護目的の威嚇射撃をすることはともかく万一にも人に危害を加えるような使用であつてはならないことは明らかである。

(三)、斉藤林は、前記証言によると、群衆から左腰部を殴打され、さらに右大腿部を棒で強打されて転倒し、頭がぼおつとなつたので、この危地から脱するため、拳銃を使用したとのことである。この場合も、斉藤が自己の身体を防護するため拳銃を使用しなければならないと判断したことには相当な理由があるけれども、斉藤は群衆の足許を狙い、明らかに人に危害を加える方法で拳銃を発射した。この場合、斉藤は、まづ拳銃の使用を警告し、さらに群衆に危害を与えない方法で拳銃を発射して群衆の暴行を制止すべきであり、ただちに危害を与えるような拳銃の発射を行うことは許されない。

(四)、石原常治は、前記証言によれば、角材で頭を殴られて転倒し、周囲から突かれたり、蹴られたりしたため拳銃を三発位発射したという。この場合、身体防護のため石原が拳銃を使用した判断には相当な理由はあつたといわなければならないが、石原は、銃口の方角も定めずに拳銃を発射しているのであり、人に危害を加える危険性が大きい。石原が受けた程度の侵害に対し、拳銃をもつて人に危害を与えることは許されない。

(五)、佐々木七郎は、前記証言によれば、群衆にまきこまれて左顔面に投石により衝激を受けて左目を押えていたところ、群衆が棒で殴りかかつてくるのを警棒で払つている途中、拳銃を一発撃つたというものである。かかる場合佐々木が自己の身体を防護するため拳銃を使用することは正当であるが、拳銃により人に危害を加えてまで防衛しなければならないほどの重大な侵害を受けていたとはいえない。

以上のとおり、仮に刑事公判廷における証言を前提としても、右五名について、人に危害を加える拳銃の使用は許されなかつたものである。

4  さらに、同様に補助参加人らの刑事事件公判廷における証言を前提として考察しても右五名以外の補助参加人らは、拳銃を発射したこと自体拳銃の使用方法として必ずしも適切ではなかつたとわなければならない。即ち、

(一)、多数の警察官が一隊となつて群衆に対して行動する場合、警察官の拳銃使用は、群衆に対する刺戟、および鎮圧の効果あるいは第三者に危害を与える虞れなど、影響するところが大きいところから、現場指揮官の命令によることができない緊急の特別事情にある場合を除いては、必ずその命令により使用し、個々の警察官の判断のみで使用してはならないことは、警視庁警察官拳銃使用及び取扱規程中にも明示されているところであるが、補助参加人らの前記各証言によつても同補助参加人らは、右斉藤林、石原常治らの如く、現場指揮官の指示を持つことができないと認められる場合以外においても、鈴木修をのぞき、指揮官の指示をあおぐべく配慮したことは何らうかがわれない。補助参加人らの拳銃使用は、きわめて無統制であり、このことをとつても、拳銃発射が必ずしも適切なものではなかつたことを窺うことができる。

(二)、御園久信の前記証言によれば、御園は竹竿で手甲を殴られている状況で拳銃を一発撃つたが、御園はむしろ身体の防護の目的よりも拳銃を奪われるのを防ぐため威嚇したものであるとのことである。このような場合に、指揮官の指示にもよらずに拳銃を発射すること自体、許されない。

(三)、飯島清次の前記証言によれば、飯島は、群衆に追われて逃げる途中において拳銃を五発撃つたものであるという。しかしながら、飯島の証言する状況によつても、飯島の逃げていく方向には群衆もいないうえ、追つてくる群衆はまだ後方にあつた。そして、直接の暴行を受けていたわけではない。このような状況の下では、身体の防護のため拳銃を使用する必要性はいまだ認めえない。

(四)、成井九次の前記証言によれば、成井の拳銃使用は、鉄兜を打たれていたときである、というのであるが、その証言する状況によつても成井は、その時既に恐怖心に陥り、周囲の状況等を具体的に把握することもできない状態にあつた。そのため、成井の拳銃発射は無意識のまま行なわれ、発射後も成井はぼうぜんとするのみであつた。したがつて、成井の拳銃発射は、いまだ身体の防護のための使用ともいえず、とうてい許されるものではない。

(五)、中村政栄の証言するところによると、中村は群衆にとりかこまれ、四、五メートルの距離のところから拳銃を二発発射したというのである。しかし、右証言によつても、中村は重大な危害を加えられていたわけでもなく、また群衆をかきわけてその場を逃れうる状況であつたのであるから、身体防護のためとはいえ、いまだ拳銃使用の必要性はない。

(六)、吉田弘明の証言によると、祝田橋歩道上において群衆から抵抗を受けたため拳銃を二発位撃ち、さらにその後、群衆に殴りかけられて、拳銃を連射したというのであるが、吉田は拳銃をとり出した際に周囲から「よせ、よせ」という制止の声がかかつたため、吉田自身躇躊したにもかかわらずあえて発射したというのであり、また、吉田が重大な危害を加えられたというわけでもない。このような状況で、防護のための拳銃使用の必要性はまだ認めえない。

(七)、岩淵信雄の証言するところによると、群衆にとり囲まれていた外国人を救出するために拳銃を発射したというのであるが、岩淵は、前示第三、二でみたとおり、自己の拳銃発射の状況はよくないというので、渡辺、吉田の両名に指示されるまま、虚偽の拳銃使用報告書を作成している。このこと自体、岩淵の拳銃発射が不当なものであることを推認させるものであるが、岩淵の証言するところによつても、同僚も大勢附近にいたにもかかわらず敢えて単独で暴行を受けいいた外国人を救出しようとして拳銃を使用したものであり、拳銃使用の必要性がなかつたことは明らかである。

(八)、大西鉞生も、吉田らに指示されるまま、虚偽の拳銃使用報告書を作成しており、これによつても大西の拳銃発射の不当性は推認しうるところであるが、大西の証言するところによつても、大西は十数メートル離れた群衆に対し、特におそいかかつてきたわけでもないのに、再び乱闘になつたら大変だと思つただけで拳銃を発射しているのであり、拳銃使用の正当性は全くない。

(九)、鈴木修も同様に虚偽の拳銃使用報告書を作成したので、拳銃使用の不当性は推認しうるところであるが、鈴木の証言するところによつても、群衆が投石などして進んできただけで、拳銃を発射している。このような場合にはまだ拳銃使用の必要性があつたとは言えない。

(一〇)、岩屋満も同様に虚偽の拳銃使用報告書を作成していることから、拳銃使用の不当性は推認しうるところである。岩屋の証言するところによつても、群衆に追いかけられて逃げる途中拳銃を発射したのであるが、群衆との距離は十数メートルも離れており、岩屋が逃げていつたところには警察官も多数集まつていたのであるから、身体防護のためとはいえ、拳銃使用の必要はない。

(一一)、望月文治の証言するところによると、望月は、馬場先門巡査派出所に群衆が近づいてきたというので拳銃を発射している。右証言する状況においては防護のためとはいえ、拳銃使用の必要性はない。

(一二)、赤崎年雄の証言するところによると、松の樹の上にいて、群衆がその松の樹に近づくのをおそれて群衆を威嚇しようと拳銃を発射し、さらにその後交番に近づいてくる群衆を追い払うため拳銃を使用しているのであるが、いずれの場合も、右のような状況の下においては防護のため拳銃を使用する必要があつたとはいえない。

5  以上のとおり、補助参加人らの拳銃使用状況について、仮に刑事事件公判廷における証言によつて検討するとしても、補助参加人らには拳銃発射によつて人に危害を与えてもよい状況は存在しなかつたのであり、北爪量平、森一雄、斉藤林、石原常治、佐々木七郎については身体防護のために拳銃を発射する必要性を認めうる状況にあつたといえるけれども、この場合にも人に危害を与えないように厳格に安全を配慮して使用されなければならなかつたものであり、また御園久信、飯島清次、成井九次、中村政栄、吉田弘明、岩淵信雄、大西鉞生、鈴木修、岩屋満、望月文治、赤崎年雄については、拳銃を発射したこと自体に前示の注意義務を怠つたことを窺うことができるのである。

そうすれば、高橋正夫を射撃した警察官を特定しえず、また補助参加人らの拳銃使用状況を必ずしも正確には知ることができないとしても、補助参加人らの発射した六一発の拳銃使用について、これがすべて適法であり何ら注意義務に欠けるところがなかつたということができないことは明らかであり、結局、補助参加人らの拳銃使用の正当性についての証明がないことに帰する。してみれば、前示一に説示したとおり、補助参加人らの本件における拳銃使用は、違法でありかつ過失があつたものと推定しなければならない。

三、騒擾緊急状態について

1  被告および補助参加人らは、「皇居前広場内にいた群衆は騒擾罪の適用を受けるべき暴徒であり、高橋正夫もその一員である。拳銃を発射した補助参加人等警察官は、この暴徒を鎮圧排除の職務執行のため、あるいは防護のため、拳銃発射そのものが正当視されるうえ前示注意義務を守ることができない緊急状態にあつたのであるから、仮にたまたま発射弾が暴徒あるいはその附近の群衆に当つても、責任はない」。と主張し、抗弁(その二)の二記載のとおり、騒擾状態を詳述している。

2  たしかに、当日、皇居前広場に多数の群衆が入り、前示の警察官部隊による警備実施に際し、相当数の群衆が抵抗して警察官に暴行を加えたことは顕著であるが、高橋正夫がこれら警察官に暴行を加えた群衆の一員であつたと認めるべき証拠はなく、かえつて前示第四の一の事実のとおり、高橋正夫は、拳銃により射撃を受けた時は、楠公銅像島上を警察官部隊の排除を受けて、走りながら逃げていたものである。被告および補助参加人らは皇居前広場が騒擾状態にあつたと主張しているが、本件の拳銃使用の正当性の判断については、具体的に高橋正夫に対する射撃の正当性が検討されねばならず、周囲の一般的な「騒擾」状態の存否から推論しうるものではない。何故なら、犯罪行為を制止すべき警察官であつても、武器の使用にあたつては、前示のとおり正当防衛、緊急避難の外は、警職法第七条一号に該当する場合以外には人に危害を与えることは許されないことは明らかであり、(騒擾罪においても附和随行者は同号に該当しない。)犯罪行為の制止に当る警察官も、この限度において拳銃を使用すべき注意義務がありしたがつて、警察官が、右警職法の要件に反した違法な武器の使用により人に危害を加えた場合には、このことを予見、あるいは回避することができない容観条件の下においては格別、たとえ犯罪行為の制止の職務行為に伴うものであつても責任を負わなければならないからである。このことは、流弾あるいは跳弾によつて第三者に危害を与える場合にも同様である。この観点から見れば、被告らの前示主張は、右の違法な武器使用により人に危害を与えることを予見し、あるいは回避することは不可能であつたと主張しているものと解することができる。しかしながら、右の特別の事態にあることも個別かつ具体的に主張されなければならないところ、刑事事件公判廷における補助参加人らの証言を検討してみても、補助参加人らが拳銃を発射した状況においては、いまだかかる結果の予見ないしは回避の可能性がなかつたとはいえないし、他にそのような状況の下で拳銃を発射したために高橋正夫の被弾が避けられなかつたものであることを認むべき証拠もないのである。したがつて、被告、補助参加人ら主張のような騒擾状態にあつたかどうかを判断するまでもなく、前示主張は採用できない。

第六被告東京都の責任

一、加害者の特定について

被告東京都が国家賠償法にいわゆる公共団体であることはいうまでもなく、警視庁管下の各警察署、各方面予備隊に配属された警察官が被告東京都の公務員であることも明らかである。ところで前示第四の三に説示したとおり、高橋正夫を死亡させた加害者は、当日、皇居前広場において第一方面予備隊、第三方面予備隊、第六方面予備隊、第七方面予備隊が前示第二、四のとおり警備活動を行つた際に拳銃を発射した補助参加人ら一六名の警察官のうち、いずれかの警察官であることが推認されるだけで、具体的に加害者を特定して明らかにすることはできない。しかしながら、国家賠償法は、国または公共団体が公務員の公権力行使にあたつて違法に他人に損害を与えた場合には直接不法行為責任を負うべきものと定めたものと解するのが相当であり、この見地よりすれば、その公権力の行使に当る公務員の行政組織上の地位が明らかであれば、国家賠償法上の他の要件を満すかぎり、国または公共団体は、その不法行為責任を負わなければならないと解すべきである。とくに国または公共団体の行政機構が巨大化し、また公務員が集団となつて公権力の行使に当る場合も多いことに照らし、個々の具体的な加害者の特定を被害者に要求することは無益な負担を強いるものであつて不当であり、被害者の救済の要件としては、公務員の行為によることが明白であれば足りるものと解するのが憲法一七条の趣旨にもそうものと考えられる。内部関係で求償権の行使ができるか否かは、特定の程度を左右する理由とはならない。

本件の場合、前示争いのない事実のとおりの各部隊に所属した補助参加人らが、前示第二の四に認定した各部隊の警備活動に部隊の一員としてそれぞれ参加し、その過程において拳銃を発射したため、高橋正夫は死亡するに至つたものである。したがつて右加害者は、補助参加人ら一六名の警察官のうちの一人であり、かつこの者の行政組織上の地位ならびに行使に当つた公権力の特定も明らかである。そして、この加害者の行為の違法性ならびに過失については既に説示したとおりであるから、被告都は、国家賠償法に基づいて、その損害賠償責任を負わなければならない。

二、消滅時効について

1  被告ならびに補助参加人は、民法七二四条にいわゆる「加害者を知りたる時」とは、加害者と損害賠償義務者が異る場合には損害賠償義務者を知れば足りるものであるので、国家賠償法に基づいて損害賠償を請求する場合には加害者が公務員であることを知つたときから時効が進行する、しかるところ、原告らは事故発生の当日である昭和二七年五月一日に本件不法行為による損害の発生および加害者が公務員であることを知つたのであるから、本件損害賠償請求権は、既に時効により消滅していると主張する。

2 不法行為による損害賠償請求権につき民法七二四条が三年の短期消滅時効を定めているのは、一般債権に比し、不法行為の発生原因は複雑多岐にわたり、その発生自体が偶然的要素によることも大いので、証拠の蒐集保存に困難が伴うため、長期間経過すると加害者の責任の有無、損害額の確定も難かしくなること、また長期間経過すれば被害感情も治癒されるであろうこと等の事情を考慮したものであるが、反面、この三年の消滅時効の起算点を、被害者またはその法定代理人がこの「損害および損害者」を知つたときと定めている。これは、被害者が、加害行為の事実を知るのみでは損害賠償請求権を行使することができないが加害行為によつて発生した「損害」および損害賠償請求の相手方である「加害者」をともに知ることにより、はじめて損害賠償請求権を行使しうるようになるので、この時点から時効を進行させることとしたものである。この観点からすれば、同条にいわゆる「損害」とは、単なる損害発生の事実のみならず、加害行為が違法であること、この違法な加害行為と損害発生の事実との間に相当因果関係があることをも含まれた趣旨に解さなければならないし、また「加害者」とは、損害賠償を請求すべき相手方であるから、加害行為者とは異る損害賠償義務者に請求をする場合には、損害賠償義務者が賠償義務を負担すべき要件となる事実をも知らなければならないと解するのが相当である。本件の場合、原告らは、国家賠償法に基づいて、被告東京都を損害賠償義務者として、その公権力の行使に当つた公務員の加害行為にもとづく損害の賠償を請求している。したがつて、被害者が損害賠償義務者を知つたというには、加害行為をなした公務員の身分すなわち行政機構上の地位、および当該加害行為が公権力の行使たる職務の執行に際してなされたものであることを知らなければならない。

もつとも、前示一に説示したとおり、被害者救済の観点から、加害行為をなした公務員を特定しえなくとも、損害賠償を求めうると解した場合には、特定の加害行為者を知ることまでは必要ないけれどもそれでも、賠償責任団体を特定し、かつ当該加害行為が公権力の行使たる職務の執行に際してなされたものであることを明らかにするためには、少くとも加害行為をなした公務員の身分すなわち行政組織上の地位を知らなければならないことはいうまでもない。

3  <証拠>によれば、原告らは、昭和二七年五月一日朝、子供である高橋正夫がメーデー行事に参加するというので出かけて行くのを見送つたが、同日午後三時頃ラジオのニュースで皇居前広場において警官隊と労働者が衝突したということを聞き、さらに午後五時半頃、都庁に勤務する高橋正夫の友人から、正夫が皇居前広場で負傷し死亡したことを知らされ、高橋正夫が運ばれていた京橋診療所にかけつけた。原告らは、同所で高橋正夫の遺体に接し、さらに検死に立ち会つて、高橋正夫が拳銃の発砲により被弾し死亡したものであることを知つた。その後、原告らは、鈴木勝男から高橋正夫が射撃を受けた時の様子を聞いたり、ラジオ、新聞等のメーデー事件に関する報道により知つたメーデー当日の概況から、高橋正夫は警察官の拳銃発射により死亡するに至つたものであろうと判断し、「高橋正夫は警察官に殺された」という趣旨のことを報道関係者に話したり、昭和三〇年には「私の星正夫よ」と題する詩にも表現した。一方、メーデー事件直後には、皇居前広場に入つた群衆も拳銃を使用したという趣旨の報道がくりかえされ、また東京地方裁判所刑事部におけるメーデー事件騒擾被告事件審理の公判廷においても検察官は、高橋正夫に命中した弾丸が、警察官が発射したものということは断定できないという趣旨の釈明を行うなどしていた。

しかしながら、右刑事事件の審理も進み、昭和三四年になつていわゆる総論立証段階の終り頃に補助参加人らが公判廷に喚間され、拳銃発射の事実、補助参加人らの部隊行動、拳銃を発射した際の状況等を具体的に証言した。そのため、原告らも、公判廷の傍聴あるいは右事件の被告団関係者の報告等から、右証言内容を聞き及び、拳銃を発射した警察官が警視庁所属の警察官であることや、その所属部隊、あるいは拳銃を発射した際の状況等を具体的に知ることができた。そこで原告らは、昭和三五年五月一三日、これら警視庁警察官の加害行為の賠償責任主体である被告東京都に損害賠償を求めるため本訴を提起するに至つた。

以上の各事実を認めることができる。<証拠排斥―略>

4  右の認定事実によれば、原告らは、事件発生の当日、正夫が拳銃によつて射殺されたことを知り、かつ、その後まもなく、鈴木勝男の話で正夫が逃走中に背から射撃を受けた状況を知るに至つたことは明らかであるけれども、原告らが、正夫は警察官に射殺されたものと判断した根拠は事件当日の皇居前広場の概況についての報道や伝聞等の一般的な知識のみであり、拳銃を所持し使用した者の数、氏名、および拳銃使用状況等、高橋正夫の加害者を知るに必要な事実については何らの認識もなかつた。そのうえ、新聞報道等には、当日の拳銃発射者について不確実な情報も現われており、また、刑事事件公判廷においては、検察官が正夫の死亡は警察官の拳銃によるものではない旨の釈明が行なわれるなど、当時においては事の真偽を詳らかにしうる状況にはなかつたことが明らかである。したがつて、この段階で原告らが、正夫は警察官に射殺されたものと判断したとしても、これは未だ憶測の域を出ないものであつて具体的認識にもとづいたものとは到底いえない。ところで、民法七二四条にいわゆる「知リタル時」とは、被害者が、現実の加害者(あるいは損害賠償義務者)ないし損害を合理的な方法で挙証しうる程度に具体的な資料にもとづいて認識しえた場合をいうものと解すべききであるから原告らが具体的な資料にもとづかないで、主観的に警察官が射殺したものと考えたとしも、このことによりただちに加害者は警察官であることを「知つた」ということはできない。さらに原告らの判断によつても、高橋正夫を死に至らしめた警察官の身分、行政組織上の地位等については何ら明らかにすることができず、したがつて、いまだ損害賠償責任団体を特定して知ることもできないし、また拳銃発射が公権力の行使たる職務執行に際して行なわれたこと、あるいは警察官の拳銃発射と高橋正夫死亡との因果関係については何ら知ることはできなかつたことは明らかである。そして原告らは、昭和三四年に至り具体的に補助参加人らの刑事事件公判廷における証言を資料として、これらの事実について憶測したところが真実であることを知つたものと認められる。

そうすれば、原告らの被告に対する損害賠償請求権は、右のとおり、原告らが、事件発生当日に警視庁管下の各方面予備隊が警備活動のため皇居前広場に出動し、補助参加人らが右警備実施に際し拳銃を発射したこと、右拳銃発射の状況からすれば、高橋正夫の死亡はこれら警察官の拳銃発射によるものであり、かつこの拳銃使用は違法なものであること、以上の各事実を刑事公判廷における補助参加人らの証言にもとづいて認識した昭和三四年頃から消滅時効は進行するものと認めることが相当である。

そして、原告らは、昭和三五年五月一三日に、本訴を提起して、損害賠償を請求しているのであるから、被告らの消滅時効の主張は失当といわなければならない。

三、過失相殺について

1  被告および補助参加人らは、さらに、高橋正夫は(1)騒擾罪に該当すべき暴徒の一員であること、(2)仮にそうでないとしても、その使用を禁止され、かつ危険な状態にあつた皇居前広場に立入り、あえて退去をしなかつたものであること、をあげて、被害者にも重大な過失があるので損害賠償を定めるについて斟酌すべきである、と主張する。

2  しかしながら、高橋正夫の当日の行動は、前示第一、5の争いのない事実と第四、一の認定事実のとおりである。そして、被告および補助参加人ら主張のように、高橋正夫が暴徒の一員であり、この先頭に立つた警官隊に反抗するために皇居前広場に入つてきたという事実を認めるに足る証拠は存在しない。もつとも、原告高橋トヨ本人尋問の結果によれば、高橋正夫が着用していた服のポケットの中に、指先大の小砂利が一握位はいつていたことも認めることができるが、この一事をもつて高橋正夫が警官隊に反抗すべく広場に立つた暴徒の一員であることの証左とすることは到底できない。

3  さらに、皇居前広場は、当日、第二三回メーデー中央大会場々として使用することは禁止されていたものの、一般の人々の立入は自由とされており、警視庁の警戒総本部においても無許可の集団行動は制止、ないしは立入の阻止をなすけれども、メーデー行進参加者ではあつても、三々五々広場に立入る者については阻止してはならない旨の警備方針を指示していたものである。そのうえ皇居前広場の管理者である厚生大臣の前示使用不許可処分については、総評が厚生大臣を被告としてその取消を求めて、東京地方裁判所に訴を提起していたが、昭和二七年四月二八日に東京地方裁判所は右使用不許可処分を取消す判決をなしていたこと、また当日皇居前広場には、万を超える人数の者が立ち入つたことも公知の事実である。

高橋正夫は、日比谷公園でメーデー集団行進を解散した後、一旦都庁に帰つて、その後同僚とともに皇居前広場に入つているものであるが、何時の時点で、またどのような動機で立ち入つたものであるかは必ずしも明らかではない。

被告らは、警官隊と群衆の第一次の衝突があつたことを聞いて職場を放棄して広場へ入つてきたというけれども、そのように認むべき証拠はない。また前第二、三、3、(四)のとおり警戒総本部では、第二次の衝突のころ、皇居前広場に至る道路の交通遮断を指示しているが、<証拠>によれば、この指示は必ずしもスムーズには実施されず、かなり遅れて交通遮断措置がとられたものであることも窺われ、高橋正夫が警察官の右措置に抗して皇居前広場に入つたと認めることもできない。被告らは、また、皇居前広場は危険きわまりない状況になつていたのにもかかわらず立入り、あるいは退去しなかつた点において過失があるともいうが、広い区域の皇居前広場において、ほぼ全面的に混乱状態が拡大したのは、前示第二、四の段階以降のことであり、高橋正夫が皇居前広場に立つたときに、すでにこのような混乱状態がはじまつていたかどうかも必ずしも明らかではないのである。さらに、高橋正夫が、混乱状態になつた際に警察官に反抗する暴徒とともに行動したと認めうる証拠はない。また、右混乱状態になつた際にすみやかに退去をしなかつた点も指摘するが、混乱が広場全体に広がつた時期においては、すみやかに広場から退去しえたものであるかどうかも明らかではなく、このことをもつて、本件の損害賠償額を定めるにつき斟酌すべき過失ということはできない。

4  以上のとおり、高橋正夫の行動については、本件の損害賠償額の算定について斟酌すべき過失は窺われないので、この点に関する被告および補助参加人らの主張も、採用できない。

第七損害

一、得べかりし利益の喪失

1  高橋正夫は昭和四年三月一一日生れの男子であり、当時の年令は二三年一ケ月余であつて、健康体であつたこと、そして、同人は、東京都民生局保護課に勤務し、六級七号俸の給料を受けていたことについては被告ならびに補助参加人らは明らかに争わないので、これを自白したものと認むべく、また高橋正夫が本件事故に遭わずに勤務を継続すれば、昭和二七年五月から昭和三六年四月まで、原告主張のとおりの俸給、諸手当、賞与が支給され、その合計額は二、四六九、二〇六円となることについては当事者間に争いがない。更に昭和三六年五月以降は、少くとも、月当りの給料が二四、四〇〇円、諸手当が二、八八〇円であり、また年間の賞与も少くとも八九、三二三円であり、年間を合計すると四一六、六八三円の収入が得られるものであること、および高橋正夫の生活費はその収入の三分の一以下であるとこについても被告ならびに補助参加人において明らかに争わないところである。そして同人の平均余命は、生命表によれば43.66年であるところ、満六〇才をもつて就労稼動年限と考えるのが相当である。

2  そうすると、高橋正夫は、昭和二七年五月から昭和三六年四月までの九年間に生活費を控除した純収益が少くとも一、六四六、一三七円あり、これが同月までの得べかりし利益であつたことは明らかである。

さらに、昭和三六年五月以降は、就労稼働年限に達する昭和六四年まで、毎年、生活費を控除した二七七、七八八円の純収益を得ることができ、これも高橋正夫の将来得べかりし利益である。今これを一時に損害の賠償を受けるため、ホフマン式計算法により年毎に中間利息を控除して昭和三六年五月における現価を求めると、四、七八三、五〇九円である。

よつて、高橋正夫の得べかりし利益額は、これを合計した六、四二九、六四六円となる。

したがつて、高橋正夫は、同人の本件事故により右金額の得べかりし利益を喪失し、同額の損害を蒙つていたものであるが、高橋正夫は原告らの長男であつたことについては当事者間に争いのないところであり、また原告高橋トヨ本人尋問の結果によれば、同人は配偶者もなかつたことが認められるので、原告両名は右損害の賠償請求権を各二分の一づつ相続したものである。

二、慰藉料

<証拠>によれば、高橋正夫は、原告らの長男として、大東文化学院政経料を卒業したのち、佃中学校、厚生省に一時勤務したが昭和二五年一〇月から東京都民生局保護課援護係に主事補として勤務し、当時沖仲仕をしていた原告高橋正とともに、原告高橋トヨ、妹洋子(当時二一才)弟勲(当時一一才)らの生活を支えていたものであること、現在では、原告高橋正は職を失い、原告高橋トヨが飲食店を経営して生活を支え、妹洋子はすでに嫁ぎ、弟勲は未だ未婚ではあるが、中央ガス工事株式会社に勤務していることが認められる。そして、本件事故により原告らは、右正夫を失い、その死亡の事情にも鑑み、死亡后相当期間経過しているものとはいえ甚大な精神的苦痛を蒙つているものであることは容易に認めうるところである。原告らの右苦痛を慰藉する金額としては、本件の諸般の事情からして、各七〇〇、〇〇〇円が相当であると認める。

第八結論

以上のとおりであるから、被告は、原告両名に対しそれぞれ、得べかりし利益の喪失三、二一四、八二三円および慰藉料七〇〇、〇〇〇円合計三、九一四、八二三円の損害賠償金ならびに各損害発生の日から民事法定利率年五分の割合による遅延損害金の各支払義務がある。そして、原告両名は、本訴において、右損害賠償請求額の内金として、各一、五〇〇、〇〇〇円と損害発生の日以后であることが明らかな昭和三五年五月一七日から支払済まで年五分の割合による遅延損害金を求めているのであるから、本訴請求はすべて理由がある。

よつて、原告らの請求を認容し、訴訟費用の負担につき民事訴訟法第八九条、仮執行の宣言につき同法第一九六条をそれぞれ適用して、主文のとおり判決する。(渡辺忠之 山本和敏 大内捷司)

(別紙)

第一表(警察官一六名の拳銃発射状況)

番号

氏名

所属

時刻

場所

発射数

1

北爪量平

一予備特別班

午后

四時頃

銀杏台上ノ島東南(祝田橋寄り)角よりさらに濠の土手寄りの附近

六発

2

御園久信

一予備三中隊

同右

銀杏台上ノ島の中央よりやや祝田橋寄り附近

一発

3

飯島清次

一予備三中隊

同右

楠公銅像島の西側の中央自動車道路附近

五発

4

森一雄

一予備四中隊

同右

上ノ島の西側桜田濠沿い砂利道附近

広場内で祝田橋に近い中央自動車道附近

二発

四発

5

斉藤林

七予備特別班

同右

祝田町警備派出所前砂利道附近

九発

6

石原常治

七予備二中隊

午後

四時頃

上ノ島の西側桜田濠沿い砂利道附近

楠公銅像南側無料休憩所附近三発

三発

二発

7

成井九次

七予備二中隊

同右

上ノ島の西側桜田濠沿い砂利道附近

六発

8

佐々木七郎

七予備二中隊

同右

祝田町警備派出所前砂利道附近

一発

9

中村政栄

七予備二中隊

同右

同右

二発

10

吉田弘明

七予備三中隊

同右

広場内で祝田橋に近い中央自動車道路附近

六発

11

岩淵信雄

七予備三中隊

同右

楠公銅像西側中央自動車道路附近

一発

12

大西鉞生

七予備三中隊

午後

四時頃

楠公銅像の祝田橋寄り芝生の上附近

一発

13

鈴木修

七予備三中隊

同右

上ノ島中央附近

五発

14

岩屋満

七予備三中隊

同右

上ノ島ほゞ中央附近

一発

15

望月文治

丸の内署

同右

馬場先門内巡査派出所附近

二発

16

赤崎年雄

丸の内署

同右

同右

四発

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